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社会システムの複雑性と統一性

馬場靖雄

5.結語

(13) Luhmann[1968b:19f.]ではこのような観点のもとで、過去に依拠する伝統主義と、現状(Status quo)から出発する態度を区別すべきだと主張されている。前者が過去を実現されるべき価値として捉えているのに対して、後者は現状をその事実性において、さらなる決定のための足場として用いようとする。それゆえ後者はむしろ変革のために役立つのである、と。
 ついでに指摘しておくならば、ハーバーマスもまた、「変えることのできないもの」に依拠しているという点ではルーマンと何ら変わらない。ただハーバーマスの場合、議論=決定の拠点となる「理想的発話状況」が偶発的事実としてではなく、「こうであって他ではありえない」という(準?)超越論的な地位において想定されている、という違いはあるが。いわばハーバーマスは、王は単なる「モノ」ではなく、正統な資格をもっていると主張しているわけだ。コミュニケーション行為の王国で生活している以上、あなたはすでに「理想的発話状況」を承認しているはずである、と。このような態度にこそ−−「王党派的」というのは冗談が過ぎるにしても−−「保守的」ないし「反動的」というレッテルがふさわしいのではなかろうか。

(14) 先に「見えざる手」について述べたことからも明らかなように、「否定的な態度をとることによって、否定したはずのものに取り込まれてしまう」というこの事態は、何らかの否定的な言明によって近代社会を捉えようとするあらゆる試みにおいても登場してくる。例えば、「神々の争い」(もはや全能の神は存在しない)や「神の死」を考えてみればよい。それらが近代社会総体を規定する統一的なメルクマールとして提起されているかぎり、事態は何も変わっていないといわざるをえない。争う神々や死せる神が(デリダ流にいえば、「神の死体」が)依然としてわれわれの頭上に君臨しているのである。もしかしたら神々は争うふりをすることによってわれわれを共同統治しているのではないか。事実、「多様な生き方」や「ステレオタイプの打破」を追求していたはずの人たちが、いともたやすく「われわれは今や『普遍的価値』を明示すべき段階に到達した」などと言ってしまったりするわけだから。あるいはまた、ジジェクの議論に従うならば、不在の神こそ全能である、ということになるだろうから。ニーチェが示唆しているように(Nietzsche[1968=1982:269])、唯一神(を詐称する者)に対しては、殺害を試みるのではなく、笑いとばさねばならない。注5でも述べたように、これこそが「セカンド・オーダーの観察」が(あるいは、「社会学的啓蒙」が)めざしていることなのである。
 あるいはもっと極端にいうならば、われわれはドグマティックでなければならない。「多様性の尊重」といったソフトな態度で満足しているかぎり、多様性という名の単一性の枠から出ることはできないからだ。ジジェクが自分のことを「スターリニスト」(!)と呼んでいる(Zizek[1992c:26-7])のも、このような文脈において理解されうるだろう。

(15) これを「コンフリクト・セオリーの復権」などと解釈しないよう注意されたい。「コンフリクトは社会にとってどんな意味をもっているのか」云々と問うことも、統一性を前提とした作業の一種に他ならないのだから。そこでの「抗争」は、「飼い馴らされた」(すなわち、「社会」という統一的存在に媒介された)ものになってしまっているのである。あるいはわれわれの「闘争」と「コンフリクト・セオリー」の相違は、宇城[1993:91-2]のいう「主体の構成」と「社会化」の相違に(それゆえ結局のところ、アルチュセールにおける「論理的なもの」と「現実的なもの」との相違に)相当する、と述べることもできるだろう。

「すべてが可能なのかもしれない−−しかし、私はほとんど何も変えることができない」という言葉(Luhmann [1971a:44])こそが、ルーマンのシステム理論の根本的性格を示していると、論敵である「批判理論」家ユルゲン・ハーバーマスは述べている(Habermas[1973:179=1979:211])。ルーマンの理論は、社会の現状をそのまま追認する、度し難い保守主義に基づいているのだ、と。しかし、ジジェクがヘーゲルの「反動的」な議論を読み変えたように、この言葉ももっとポジティブに読めるのではないか。すなわち以下のようにである。〈完全な/選択的な〉という区別も含めてすべてが選択的だとしても、「あらゆることは相対的であり、したがって決定不能である」という結論にはならない。「変えることのできない」個々の作動の事実性を手掛かりにして、決定を下すことが常に可能だからである。王が詐欺師だということを見抜いたとしても、王が何かを語ったという事実そのものを(そして、それに基づいてなされた臣下たちの行為を)無化してしまうことはできないのである13。あるいは、「決定不能性」を主張することもまた、決定のための足場として働きうるし、したがってそこから何が生じているかを記述する(あるいは、「決定」する)ことはできるのだといってもいいだろう。王の不在によって定義される民主政のうちに、王の言葉が欠如というかたちで書き込まれているのと同様に、決定不能性について語ること自体のなかに、すでに決定が書き込まれているのである。 逆説的に述べるならば、「社会は複雑であり、統一性としては記述できない」という議論によっては複雑性を捉えることはできない。むしろ、「社会の統一性は常に記述可能である−−ただし、複数の視座から、複数のやり方で」というべきではないのか。複雑性は否定ではなく、断固たる(しかしながら同時に自己限定的な)肯定のうちにある14

 あるいはこう言い換えることもできる。複雑性は、「見えざる手」によるソフトな調和としてではなく、無媒介的な衝突によって、すなわち「闘争」によって、もたらされるのである、と。「批判的社会学の終焉」(Luhmann[1991b])は、闘争の終焉を意味するわけではない。むしろその逆こそが正しいのである15


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