まずルーマンに従って、複雑性概念の歴史的変遷と、現代におけるその特徴について見ておくことにしよう(Luhmann[1990a:59-62 ])。
一般に、ある概念の内容を明確にするためには、当の概念自体だけでなく、反対概念として何が用いられているかにも注目しなければならない。言葉としての概念自体が続けて用いられているとしても、対のかたちで用いらる反対概念のほうが変化しているならば、もはや以前とは同一内容であるとはいえなくなるからだ。一例として、「自然(Natur)」概念を取り上げてみよう。中世神学においては「自然」の反対概念は「恩寵(Gnade)」であった。神の恩寵は自然的存在としての人間を補完するかたちで救いをもたらすのか、それとも自然を排して恩寵のみ(sola gratia)を求めるべきかという、カトリック神学とルターのあいだで生じた論争は、自然/恩寵というこの区別が16世紀においてもまだ自明視されていたことを示している。それが18世紀には、ルソーに典型的に見られるように、「自然/文明(Zivilisation)」という対立へと移行する。人間は原初の自然状態のなかでは幸福に暮らしていたのに、文明を築き上げるとともに次第に堕落し、ついには現在のような不条理な社会のなかで苦しむようになってしまったのだ、と。さらに19世紀には「自然/精神(Geist)」というセットが浮上してくる。19世紀後半に登場した新カント派哲学以来現在にいたるまで、「自然科学と精神科学(人文科学)は同一の方法に基づくべきか否か」という論争が延々と続けられているのである。あるいは今日においてグレゴリー・ベイトソンが、精神と自然は不可分の統一体をなすと語るとき(Bateson[1979=1982])、やはり同じ区別が前提とされていることがわかる。いずれにせよ、どのような区別のなかで用いられているかによって、「自然」という概念の含意は異なってくるのである。
一方複雑性概念の場合、反対項は常に「単純性」であったと、とりあえずはいえる。しかし何が単純で何が複雑だと見なされるかは、やはり歴史のなかで何度か大きく変化しているのである。中世までは、世界それ自体の人知を超えた複雑さが繰り返し驚嘆の対象として語られてきた。だが「この驚嘆は、世界の複雑性に対する反対概念というかたちで、神を単純なものとして考えうるということに依拠していたのである」(Luhmann[1990a:59])。神こそがあらゆる複雑性を産出する「不動の動者(the unmoving mover)」であり、世界の複雑性はこの一にして全なる神の自己展開として把握されていたのである。前節で引用したキュッパースとパスラックにならっていえば、世界の複雑性は、統一性としての神の「展開形態」である、ということになろるだろうか。出発点はあくまで統一性=単純性の方に置かれていた。「端的に単一的な存在としての神は、世界のすべての多数性に先立ってその上に存在し、すべての特殊存在の源泉にして目標である」(Gierke[1954=1985:46])というわけだ。そしてこの前提から、人類は、その見かけのうえでの多様性にもかかわらず、「一つの単一的かつ自己内結束的な『民』(Volk)」であり、「単一の外的法秩序(lex)および単一的統治(unicus principatus)を必要とする」という政治的結論が導かれることになる([同: 47])。
だが単純性から出発するこのような政治思想は、複雑さを増してゆく社会的現実のまえで、破綻せざるをえなくなる。とりわけ致命的な打撃を与えたのは、16〜17世紀に生じた宗教戦争であった。以後、単純性と複雑性の位置は、しだいに逆転していく。
18世紀に登場した、カントに代表される超越論哲学においてこの逆転が完了する。そこでは今までとは逆に、世界(物自体)は直接には把握できないほど複雑であるということが、すべての前提となるにいたる。もはや単純なものから出発できはしない。むしろ、「単純なものの概念は、理性にとって必然的ではあるが、純粋に否定的な概念となった」(Luhmann[1990a:60])。単純なものは、人間の理性が認識の必要上構成した、一種の必然的虚構に他ならない、というわけである。
だが話はここで終わらない。現在では事態はさらに「進んで」いる。現代における複雑性概念の特徴は、反対項であるはずの単純性そのものが消滅しつつあるということのうちに求められねばならないのである。あらゆる科学において、対象を分析し再構成する能力が飛躍的に増大した結果、ある研究を構想する際に単純な要素として扱われるものは、単に一時的にそれ以上分解できないと見なされているにすぎないと考えねばならなくなった。今仮に単純であると想定されているものも、やはり複雑なのである。例えば、個々の人間が抱いている価値についての観念を単純であると仮定し、それらの集計からいかにして社会的に承認されている複雑な価値秩序とそれに基づく社会制度が成立しうるのか、というように問題をたてることももちろん可能である。だが、個人が単純であり社会が複雑であるというこの想定自体は、「前社会学的な、イデオロギーに影響された個人主義のしるし」(Luhmann[1968a=1990:277])に他ならない。逆に個人こそが単純な社会的メカニズムが産み出す複雑な「効果」なのだと論じることも同様に可能なのである4。
こうして、複雑なものの反対項もまた複雑であるということになってしまった。ルーマンはこのような状態に置かれた複雑性概念を「支えのない複雑性(haltlose Komplexitãt)」と呼んでいる。もはや単純→複雑でも複雑→単純でもなく、複雑→複雑→複雑……である、というわけだ5。だからこそ今後あらゆる科学において、複雑性が中心概念として扱われるべきである、複雑性こそが「新たなパラダイム」の出発点であるという結論になるのだろうか?
実際には、事態はむしろ逆になっているようだ。反対項の欠落によって、単純性との対比というかたちで複雑性を定義することができなくなってしまった。その結果、前節最後で述べた疑念のように、「複雑である」ということがそれ自体として語られざるをえなくなった。すなわち、複雑性があたかも対象全体を規定する単一の属性(統一性)であるかのように扱われるにいたったのである。いわば、単純性は退位することによって政敵である複雑性をとりこんでしまったのだ。「こうして複雑性という概念は、反対概念のなかでの自己の支えを失ってしまった。他方でその分だけ、何かを……統一性として記述しようとする際には、複雑性概念は不可欠のものとなっている」(Luhmann[1990a:60])。逆にいえば、支えのない状態において複雑性について語ってみても、統一性の枠から出ることは決してできない。「社会の本質はこれこれである」というかわりに、「社会の本質はその複雑性にある」と述べているにすぎないのだから。そこでの複雑性は、「見えざる手」のようなものだ。「見えない」というかたちで語りうる以上、それは無色の存在として見えているのと同じことなのである。