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法のオートポイエーシスと正義

馬場靖雄

2.二つの「と」

 「ゲーデル的脱構築」型の議論がなされる時、そこには常に「と」(and, und)が登場してくるように思われる。法「と」その背後にある暴力・排除。自己完結性の外観「と」暴かれるべき決定不能性。あるいは法社会学の文脈に即して言えば、形式的に完結した法体系「と」その背後にある多様で相互に衝突する社会的諸利害と諸要因。いずれの場合でも、この「と」は、前後の二つの項目をひとつの全体へと統合する役割を果たしている。両項目間の特定の関係を確定すれば、それで原理的には全体を認識できるものとされているのである。前者を後者へと還元する、後者が前者に影響を及ぼし変容させる様を重視すべきである、両者の間の「弁証法的往復」を考える、等々。一度その種の関係が想定されれば、無限に探求が続けられうるとしても、その枠組は固定されてしまう。その意味では、想像的なかたちで「全体」に到達したことになるのである。CLSやカルチュラル・スタディーズが時として「単純作業」に見えてしまうのも、そのためであろう。
 あるいはルーマンにならって、この「と」こそが全体を象徴する役割を担っているのだと言ってもいい。

 例外のある規則と例外のない規則がある‥‥あるいは、正しい主張と正しくない主張がある‥‥。しかし、この「と」によって何が指示され、何が排除されたのだろうか−−何も指示されていなければ、排除されてもいない。この「と」は、システムの内部でシステムの統一性にとって代わるジョーカーとして働いているのだ。‥‥とはいえ、それによってシステムの統一性が充分に記述されるわけではない。それもまた、パラドックスが隠れすむ場所なのである。(Luhmann [1991:375-376 :The Third Question/馬場靖雄訳、「第三の問い」、河上倫逸(編)、『社会システム論と法の歴史と現在』、未來社 ])

 「例外のある‥‥」と述べられたからといって、それで何らかの有益な結論が得られるわけではない。「例外のある規則」も「例外のない規則」も、具体的に同定されたわけではないからだ。にもかかわらずわれわれはそう述べることによって、法的規則全体を射程のうちに収めたかのように考えてしまう。後はそれぞれを精査し、さらに両者の関係を考えさえすれば、「規則」全体を把握できる、と。あらかじめ存在している全体が、この区別 によって二つの領域へと隈なく(例外なく?)分割されたかのように、である。両者は異なってはいるが、もともとひとつの全体が分割されたものである以上、再度全体へと媒介可能なはずである、というわけだ。しかしそのような「全体」は、「と」によって初めて投射されたものなのである。

 一方 Zizek [1996:103-106=163-168 :The Indivisible Remainder, Verso/(1997) 松浦俊輔訳、『仮想化しきれない残余』、青土社] は、アルチュセールが「イデオロギーと国家のイデオロギー装置(Appareils Ideologiques d'Etat−−以下AIE)」というときの「と」が、媒介し統一的全体の仮象を生ぜしめるこの「と」とは、まったく異なる性格をもつことを指摘している(AIEに関する以下の議論は宇城 [1993] に依拠している)。

 通常イデオロギーは、主体と社会(小文字の主体と大文字の主体)の間の破綻のない円環を成立させる観念体系と見なされているが、それは「虚偽」であるがゆえに、常に現実的な装置によって人々に押しつけられる必要があるとされる。そしてアルチュセールのAIE概念の意義は、次の点を明らかにしたことにある、と言われている。第一に、イデオロギーが必ずしも主体にとって抑圧的ではなく、むしろ主体を可能にするポジティブな性格をもつこと。第二に、イデオロギー支えているのは、従来想定されていた抑圧的国家装置のみでなく、「小さな教会のミサや埋葬、スポーツ団体の小さな試合、学校の教室での授業、政党の集会や討論集会など」(Althusser [1970=1993:77:Ideologie et appareils ideologiques d'Etat, in: La Pensee, n.151/柳内隆訳、「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』、三交社])、社会のあらゆる領域に遍在するAIEでもあること。

 しかしもしそれらの遍在するメカニズムによってイデオロギーが諸主体へと浸透し、円滑に機能するとしたら、イデオロギー+AIEによって破綻のない円環が形成されていることになるではないか。「イデオロギーが機能している」という代わりに、「イデオロギー+AIEが機能している」と述べているにすぎないわけだ。それゆえにアルチュセールの議論は結果として、社会の全体が隅々まで機能的に統合されていると見なす、パーソンズ流の機能主義の陰画となっているとの批判が登場してくることにもなる。この解釈においては「イデオロギーとAIE」の「と」は、先に述べたように統一的(に機能する)全体を分割/媒介する役割を担っているのである。その意味ではこの解釈における「イデオロギーとAIE」は(そして、ゲーデル的脱構築において現れる「と」関係一般は)、二項関係ではなく三項関係であるとも言える。すなわち両項目および「と」=両者媒介し関係づける第三者、である。ゲーデル的脱構築の眼目は、実は決定不能性よりもこの第三者、つまり決定不能性が既存のものに及ぼす影響を見定め、定式化すること(決定不能性がもつ力を決定すること)に存するのである。−−あらゆる法がその「本質」において他者の暴力的排除を内包している以上、われわれは常に法を反省的に捉え返して改変し続けていく責任を負っているのだ、というようにである(中山 [2000:169-178:『二十世紀の法思想』、岩波書店])。

 だが実際にはアルチュセールの「と」は、それとはまったく異なる性格を持っている。

 ‥‥〔アルチュセールの〕「と」は、ある意味で同語反復的である。それは、二つの異なる様相にある同一内容を結合する−−まずイデオロギーとしての証において、そして次にそれが存在するためのイデオロギー外の条件において。それゆえにここでは、媒体を特に指し示すための第三項を必要としない。通常の場合、媒体において「と」によって結びつけられた二つの項目が互いに出会うものとされている。しかしここでは、第二項がひとつのイデオロギー的宇宙の具体的存在のネットワーク(「媒体」)〔=イデオロギー装置〕を表しているが、この第二項それ自体がすでに問題の第三項なのである。弁証法的−唯物論者のこの「と」とは対照的に、観念論的−イデオロギー的な「と」は、まさしくこの第三項として機能する。諸要素の両極性ないし複数性の共通の媒体として、である。(Zizek [1996:104=164-165]、訳文は報告者による)

 あるいはアルチュセールが「イデオロギーと‥‥」邦訳に寄せた序文でも述べているように、「AIEは用具ではない。それは形態である」(宇城 [1993:88:「国家のイデオロギー装置について」、『ソシオロジ』116] より引用)と言ってもいい。われわれはここで、アルチュセールが明らかに価値形態論との関連において導入した形態=形式(Form)という概念を、あえてスペンサー=ブラウン&ルーマン流の意味で受け取っておこう。すなわち、観察において用いられる(そして、当の観察にとって盲点となる)普遍的な二分図式である、と。イデオロギーについて考察する際には、イデオロギー/AIEという区別(差異)が常に前提とされねばならない。イデオロギーは見かけ上破綻のない観念体系であり、イデオロギー装置はイデオロギーを可能にしながらイデオロギーによって隠蔽される現実的な「闘争の場」である。これは完結した法/法秩序創設の暴力という「ゲーデル的脱構築」と同一の構図に見える。しかしイデオロギー/AIEの差異は絶対的である。すなわち、イデオロギーに関するいかなる議論においても常に前提とされねばならないがゆえに、両項目を関係づけたり同一物へと媒介することは決してできないのである。

 今仮に、「イデオロギーは観念体系だけとして存立しうるものではなく、何らかの現実的装置(例えば、「プラチック」)によって機能するのだ」と述べたとする。だが先にも述べたように、「イデオロギー+AIEが円滑に機能する」というこの言明もまた、社会を破綻のない全体として描き出す観念体系であり、それ自体がイデオロギーに他ならない。したがって次の瞬間には、この言明を可能にする現実的なイデオロギー装置(アカデミズムを支える教育・研究体制等)についての問いが浮上してこざるをえない。そしてまた、教育・研究体制についての言説もその「外側」をもつ(以下同様)。

 したがって形式としてのAIE論は、否定神学とは無縁である。AIEそのものは確かに同一性を破砕する多様な社会的諸力の闘争の場として想定されている。しかしこの「否定的なもの」は、あらゆる具体的観察に必然的に随伴する様相であって、暴露され到達されるべき「本質」ではないのである。あるいは言語行為論に由来する概念を借用して、次のように述べてもいいだろう。AIEは、あらゆる発話に随伴するパフォーマティブな次元に位置するのであって、コンスタティブな次元において把握されうるものではないのだ、と。そしてこれはもちろん、理論的発話に関しても妥当する。いかなる発話も、コンスタティブ/パフォーマティブという差異(ルーマン流に言えば、情報/伝達の差異)を通して捉えられねばならない。この「いかなる」によって、両者の関係について問うことは禁じられる。そのような問いは、媒介する「と」によって差異を抹消しようとするものに他ならないからだ4


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