- 研究者を推すということは、盲信や思考停止につながり、批判精神がなくなって、研究活動を阻害してしまうのでは?
- 推しは、科学を楽しむアイディアとして悪くはないと思うが、研究者同士の不断の相互批判や反証を妨げやしないか
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- 「推す」ことと「正しさを批判的に検討する」ことは矛盾せず両立するというのが私見です
- 例えば、熱心なカンティアン(カント主義者/カント研究者)が、しばしばもっとも先鋭的なカント批判を繰り広げるようなものです
- 法(哲)学界隈では、上記のような姿勢が通常で、自明の前提となっていたため、寄稿では説明不足だったかもしれません
- なお、共著『在野研究ビギナーズ』の拙稿(p.36)には、以下のような記載があります
ところで、法哲学では、師匠の学説を超える「親殺し」をしないと、一人前とみなされないそうである。今をときめく某憲法学者も「常に『お前ら全員殺す』と思いながら、研究をしている」旨の供述をしていた。完全にサツバツだ。しかし同時に、健全でもある。吟味と批判と淘汰によって、学問の品質や正当性が、分野全体として担保されている。
- ここでも、師として仰ぐほど尊敬し目標としてその議論を追うことと、その学説を批判することの両立が前提にされています
- ちなみに、酒井泰斗さんが担当した第11章では、研究を「闘争」「競争」のアナロジーで捉えることに対して分析がされています(p.206)
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- 論文や研究を批判的に見ることとそれを書いた研究者を推すことってのは両立できることじゃないの?
- いつも見てるからこそ「今日の大鵬の取り口はおかしい、大鵬らしくない」と苦言を呈するのが贔屓
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- 同意します
- 研究会の場では厳しい論争をしつつ、終わった後の懇親会では和気藹々と交流するといったモードの切分けなどを体験してきました
- 他の事例として、指定討論者を任されたシニア研究者が、初対面のジュニア研究者の報告に対して非常に辛辣な批判を展開したものの、その後、自分が編者になっている共著の企画に当該報告者を招き盛り立てていくケースなども該当するでしょう
- なお、これは後で応えるように「推し」「ファン」という語から喚起されるイメージの違いに起因して、賛否が分かれた可能性があると思います
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- 「推し研究者」の話、元になった本では、「推し」を屠りたいという隠さない野心が一番面白いのにその話がウェブにないのは残念
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- 共著までご覧いただきありがとうございます
- 共著の拙稿は、研究者であることを諦めそうになっている人たちが主たるターゲットなので「野心」の話もしました
- 他方、ウェブ記事のターゲット層は、(自分で研究するつもりはないが)研究に触れていたい人たちでした。そのため、「研究成果の享受だけでも社会的意義がある」と主張し、〈専門性 vs 民主性〉の緊張関係を背景に、お金と共同体の話をしました
- なお、共著で登場した先生方には、プライバシーなどに配慮して事前に原稿チェックをしてもらいましたが、「興味深い」「工藤さんの稼業がわかった」くらいのぬるい反応しか返ってこなかったので、殺気を真剣に受け止めてもらえるくらいの研究力を身に付けるべく精進したいです
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- 研究対象を批判できないから、オタクは学問には向かない
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- オタクもさまざまで、研究対象を批判できるタイプのオタクもいます
- 「対象を批判できない人」を「オタク」と定義しているのだとすると、それは私の用語法とは違うので、イメージを確認しておきたいです
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- 著書でしか知らない先生に国際学会で会ったりすると、テンションがあがってしまう
- 何これすごいって思えた瞬間やその対象になった研究や研究者のことは、心折れそうになった時に思い返すと気力が湧く
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- とても共感します
- 共著でも書きましたが、私にとって論文執筆は苦痛なため、心の支えになる存在がいることで曲がりなりにも何とかなっています
- もっとも、心の支えとする研究者であっても批判の対象となることは前述のとおりです
- つい先日も、敬慕する先生と議論した際に「自分が全く理解できていなかったことがわかった」「もはや逃避はできないと納得させられた」等のコメントをいただき、私の専門領域だったとはいえ、さすがにやりすぎたと反省しています
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- 必要ない人と、あった方が研究が捗る人がいます
- 後者は、規範的にただちに否定されるわけではないと考えます
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- 「推し」などのファンダム語彙、文脈依存性が高いだけに個々人の語感の問題が大きい気がします
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- 仰るとおりですね
- 私は「推し」に盲信するイメージを持っていませんでした。そのため、寄稿では、多義的な言葉であることへの配慮が不足していたかもしれません
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- 「推し研究者」について、アイドルとファンの比喩で捉えるのではなく、二次創作の作家と読者の比喩で捉えたら、しっくりくる
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- たしかに、そちらの方がメタファーとしてより適切だったかもしれません
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- 情報法や法哲学が専門なら、ファン文化というより闘技系のノリのはず。「プロレス」や「格闘技」に喩えた方がよかったのでは?
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- そうですね。しかし残念ながら、私はプロレスや格闘技に不案内なので、書けませんでした
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- そもそもどうしてこのアナロジー/類比を使ったのですか?
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- ウェブ記事のターゲット層は、(自分で研究するつもりはないが)研究に触れていたい人たちと設定しており、その人たちに類似する存在がファンではないかと考えたからです
- また、〈特権性 vs 平等性〉の緊張関係や、お金と共同体の話などもテーマですが、それらとも接合しやすいイメージではないかと思いました
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- 推しとかファンになるほど研究者そのものを好きになれるのか、ピンとこなかった
- 「推し論文」があるだけで、研究者がどんなライフスタイルを送っているかには、まったく興味がない
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- 興味がないことを否定はしません
- 論文ではなく研究者に興味を持つのは、例えば以下のようなケースです:
- ある論文が面白いと、その論文を執筆した研究者の別の論文を連鎖的に読み進め、「この人ならこの問題にどういうアプローチをするだろう」と想像したりすることがあります
- こうして特定の研究者の論文を追いかけていくと、論文間の見解の相違、主張の変遷、関心の移行などに気づくことがありますが(有名な例では、哲学者ウィトゲンシュタインの論考について前期と後期に大別するなど)、なぜそのような変化が起きたのか、論文だけを読んでいるとわからないこともあります
- こうした変化は、研究者間の交流・論争、就職・異動・留学・亡命、家庭環境の変化、健康状態の移り変わり、政局や世論の動向、政治活動へのコミットメントなどを補助線に引くと理解しやすくなるときがあり、(論文本体に書かれていない)論文の前提や背景がわかって、批判や評価の手がかりになる場合があります
- なお、研究者を対象とした人物史・個人史もまた研究となりえます
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- 享受した作品から作者自身に関心を抱いても、知的に興味があるだけで自分を相手に認知させたいとは思わないし、だから会いに行かない
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- 私も認知されたいとは思わないです
- 会いに行かなくても応援は可能ですし、それも意味のあることです
- ただ、私が研究者と会って話すのは、学部生の頃に以下のような経験をしたことが影響していると思います
- 刑法の講義中、担当教員の説明に違和感を覚えました。ある事件の事実認定に係る情報技術の理解が間違っていると感じました。その先生は、常に明晰な法解釈を展開していたこともあり、「玉に瑕」で惜しいという気持ちになりました
- そこで、その情報技術を概説するレポート(A4で7枚くらい)を作成し、匿名で先生のポストに投函しました
- 翌週、講義の冒頭で先生からレポートの紹介があり「指摘されたことが正しいとしても、結論に影響しないと私は考えるが、意見を聞きたいので名乗り出てほしい」と呼びかけられました
- 100人以上いる大教室で目立ちたくなく、気後れして名乗り出ませんでしたが、その後、失礼で不誠実な態度だったと反省しました
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- 研究者というヒトに着目したのは、研究(モノ)だと既存のものしか存在しないから?
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- はい、そういう面があります
- 最終成果物としての論文でなく、それを作り出す人や過程に着目した方が、将来に向けて「これからの学術環境をどうしたいのか」との構想を論じやすいです
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- 「論文執筆者名だけをみて、盲信したり、全否定したりするのは、規範的によろしくない」というご意見であるなら、上記ですでに回答したとおりです
- ところで、論文の査読では匿名性を担保しつつ、掲載時には著者名が公表されます。これはどうしてだと思いますか?
- 研究者の属人的評価について、「業績」というコンセプトがあります。これは、研究で得られた成果は公のものだ、または、研究内容のみを見て判断すべき、という建前と、しかし研究者個人を評価しなければならない場合があるとの要請が働くために生じたものではないでしょうか
- つまり、研究成果を属人的に判断して良いかどうかは、場合によると思います
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- 研究者というより、「推し研究テーマ」「推し分野」なら納得
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- 共著(p.35)では、以下のように「箱推し」のアナロジーを用いて、推し分野の話もしていました
一般に、イチオシのアイドル個人を応援することを「単推し」、アイドルグループ全体を応援することを「箱推し」と呼ぶそうだが、「憲法学推し」など学術分野に対する応援もありえよう。
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- 「推しのいる人生は楽しい」には同意しかないけど「他人から推される人生は楽しい」とは思わない
- とりわけ女性の研究者にとって、迷惑のほうが多いのでは?
- アウトリーチを行うほど距離感のおかしい聴衆からの被害にさらされる可能性は増えるので、無責任に「推し活」を勧めないでほしい
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- ご指摘ありがとうございます。たしかに私の示した構想ですと、研究のオープンさに伴う弊害を助長しかねないおそれがあるかと思います
- また、被害は現に発生していますから、(私の構想の賛否/採否は別としても)対策は必須と考えます
- 対策案としては、以下などが考えられるでしょう
- 迷惑の掛からない推し方や節度ある行動という推す側のマナーの探求
- 組織的な取組みの検討と実施
- 司会や指定討論者をおく
- 質問票形式にする
- 1対1を避け、第三者を介入させる仕組みを作る
- ベスト・プラクティスの共有
- 困っていそうな報告者の見つけ方
- 困った人への声のかけ方
- ただ、(クローズドな方がよい場面もあるのは前提として)学術研究のオープンさとトレードオフの関係に立っており、悩ましいところです
- また、アイドルの場合は、このような危険性が広く認知されており、それを回避する仕組みも整備されていますが、研究機関や学会・研究会などに同じレベルを求めるのは難しいとの直観もあります
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- クローズドにすべき場合もあるが、基本的にオープンな場では出来るだけ多くの人に触れて貰いたい気持ちはある。ただし、セキュリティ意識が必要
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- リスクを重くみて小規模なコミュニティを選び、公共性・公開性を捨てる選択をする分野もいずれ増えそう
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- 私の構想とは異なりますが、そのような構想もありうると思います(場合によってはその選択が適切なこともあるでしょう)
- ただ、知の探究よりも社交・交際を重視するという意味でのディレッタンティズムに陥らないように、様々な工夫が必要になってくると思います
- また、研究費をどうやって(安定的に)調達するかという課題も生じるでしょう
- さらに、小規模でクローズドだからこそ生じやすくなるハラスメントの類型もあり、その対策も必要だと思います
- それらを含めて検討した構想を、ぜひ読んでみたいです
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- 裾野を広げることで生じる弊害があるからと、活動自体を否定する議論をしてしまうのは、「自動車事故が起こる以上は自動車の運転自体を全て止めるべきである」と同じくらい変ではないか
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- 概ね同意します
- 制度論としては、施策全体としての利害得失を考えるべきなので、仰る通りです
- 他方、弊害への対策や個別事案への救済が必要なことも、ご賛同いただけると思います
- そうすると、「弊害」に接してしまった個人の体験や気持ちを尊重することも意味はあると考えます
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- ファン文化に迎合すると、自分が研究したいものではなく、他者が望むものを研究することになるのではないか
- 推してくる人の要求や意図が、研究に及ぼす影響について、やや無邪気では
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- 現在、研究者が、他者の(ひいては社会の)望むものとは独立に、自分が本当に研究したいことに専念できているようには見えません
- それはゆえのないことではなく、多くの研究に公的資金が投入されており、納税者に対するアカウンタビリティが発生しているからではないでしょうか
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- 熱心な読者による応援やクラウド・ファンディングはよくないが、国の研究助成はよい、という主張をどう正当化できるかを考えていた
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- 私もその点を考えてみましたが、よくわかりませんでした
- コメントをされた方たちから、さらなる応答があることを期待したいと思います
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- 学術的にはダメな研究者なんだけど、特定思想の資産家や権力者に「推された」結果、メディア露出してアカデミアや社会全体に害悪をもたらす「推され研究者」を生み出しかねない
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- 外部のアクターが、思惑や意図をもって、研究や研究者を利用するのは、(善い悪いは別として)いまも常に起こっていることではないでしょうか
- 私見では、研究者倫理/研究倫理や研究者自身のためのロビーイングなどとして捉える方が、課題設定として適切ではないかと思います
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- アカデミアにふさわしくない人物が影響力を持つことに対する対処法は、妥当な人物が影響力を持つことだ
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- 推し研究者に批判的な人が多いようだが、研究者以外にも学会誌を読んだり発表聞くだけのファン層も増やさないと資金的に厳しいのではと思う
- 推し研究者の記事を読んだ一部学者の反応を見ると暗澹たる気持ちになる。危機感がなさすぎ。学問をすることの自明性自体が問われて、もう一度合意を形成しなくちゃいけない時なのに
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- 同じ問題意識を持っています
- そのため、寄稿では「良い観客」「良い消費者」「良い納税者」を増やすことを処方箋のひとつとして提案しました
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- 「なぜ研究費を税金で賄うのか」という疑問に答える話は、興味がある。もっとも、記事のようにポジティブなトーンではなく、かなりネガティブ寄りだが
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- 日本の学術環境はかなり厳しい状況におかれているという現状認識なので、ネガティブだと思います
- 寄稿では、「これからの学術環境をどうしたいのか」という構想を展開したので、ポジティブに見えた可能性があります
- つまり「縮小均衡の施策に終始するのではない道」を無理矢理にでも考えたことによる違いです
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- 記事で紹介されていた、各国の大学設立の経緯が面白かった。特に、アメリカの有名大学は民間団体のような雰囲気があるが、そこには歴史的背景があることがわかった
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- 本文4頁目までご高覧いただきありがとうございます。寄稿中の以下の部分ですね
封建制・身分制から距離をとったアメリカでは、民間有志が法人を設立する形で大学ができ、経営陣としての理事会と教授団が並立する大学組織が発展した
- なお、字数の関係で最終的に削除しましたが、ホーフスタッターのいうアメリカの反知性主義(anti-intellectualism)への言及も草稿には含まれていました(リチャード・ホーフスタッター著、田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』みすず書房、2013年)
- 反知性主義は、高慢で軟弱な高等教育機関などで余計な知識など身につけない方が、本質的な知恵を体得できるという立場です。言い換えれば、大学にこもる経済学者よりも新進気鋭の起業家の発言を重視するような姿勢や、机上の空論より実践を通じた実学や技術が重要という発想です
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- 科学の普及、発展という目的を考えた場合、マネージメント系の人に経営権がある大学よりは、教授陣による自治の方が本来は望ましい形だと思う
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- 記事中でイギリス型やドイツ型として紹介した類型ですね
封建的な社会構造を温存したイギリスでは、大学は社団の一種として扱われ、教師と学生の共同体になった。
フランスとイギリスの中間的な姿になったのがドイツであり、国家によって大学が設立・維持・管理されるものの、一定の自治を享受し、教授会が大学の諸権限の中心的担い手となった
- ただ、記事でも指摘した通り、研究者による自治・自律は、オープンでないとかエリートの既得権益として批判されており、民主性や平等性と緊張関係に立っています
- また、学問の自由を保障する必要性から大学という制度ができたのではなく、大学という組織を母体として学問の自由が意識化されたという歴史的経緯にも注意を払う必要があるように思われます
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- スター研究者を作ろうとしてるの?
- クルーグマンのいうの世界だ
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- 寄稿ではうまく伝えきれなかった面がありますが、構想としては以下のとおりです
- 意思と能力がある人が、一般に訴求する形でマネタイズできるようになるのは、資金調達の選択肢が増えるという意味で望ましい
- 他方で、一般訴求に適さない分野や研究者にも研究費が必要であり、現状では税金で賄われていることが多い
- しかし、それが特権や既得権益ではないかとの批判・疑念は、古くからある
- また、公費である以上は何らかのアカウンタビリティは必要と考える
- 現在は数値的な評価指標によってアカウンタビリティを担保しようとしているが、うまくいっていない部分も多い
- そこで、(数値ではなく)研究内容を適切に評価できる「良い観客」「良い消費者」「良い納税者」を増やすことを提案した
- なお、制度的な改善も必要だと考えていますが、それは山口裕之『「大学改革」という病』明石書店(2017年)、福井憲彦編著『対立する国家と学問』勉誠出版(2018年)などですでに分析・検討されています
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- 人文社会科学系はもともとある種のスターシステムのようなところがあって、当然その功罪も、スター研究者なりの大変さもあるのだろう
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- 同意します
- 共著の執筆過程において、酒井泰斗さんからも「「スターシステム」は、制度としての学問に組み込まれた一つの側面として捉えることが重要」との指摘がありました
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- 素人が接近するとろくな結果にならない
- アカデミアがポピュリズムに陥る危険
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- ごもっともです
- 寄稿でも〈専門性 vs 民主性〉や〈特権 vs 平等〉の緊張関係について論じていました
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- (在野)研究推しは、学術の市場化を進めることにならないかと多少の不安もあったが、まさにその点も記事で指摘されていた
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- 問題意識を読み取っていただき、ありがとうございます
- 共著では「『在野研究』の隆盛を、研究助成などを増やさない正当化事由にしないでほしいと思う」と一行だけ記載するに止まりましたが、寄稿ではもう少し論じることができました
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- 自分が行っている研究の「ファン」や「サポーター」をつくることは研究者にとってとても重要
- 推していただけるように日々の教育・研究・学内貢献・社会貢献に取り組んでいきたいと思います
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- 「推し」は、国家が捨てた役割を国民自ら補っていく試みか?
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- そういう面もありますが、民主制をとる国家は、国民が政治の最終決定権限を有するというのが建前です
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- 「科学史学者のポーターは、計量評価への傾倒を、専門家の判断への信頼に代わって数値への信頼が台頭したものと分析した。そして、数値の追求は、ほとんど権威を持たない官僚に、権威を貸し与える結果をもたらす」という部分が面白い
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- ありがとうございます。ぜひもとの文献も読んでみてください(セオドア・M・ポーター著、藤垣裕子訳『数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得』みすず書房(2013年))
- なお、ポーターが分析した事例は、数理会計士や税理士などで、研究者については別の文脈(自然科学の頂点と言われる物理学では、特定の実験者の判断や特定の装置への信頼が高く、恣意性の排除にはあまり頓着していないこと)であることにご注意いただければ幸いです
- 大学の事例は『測りすぎ』7章の方をご参照ください
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- 「推し研究者」などの言葉が使われているが、内容自体は「探求の共同体」をどうやって維持していくかというごく一般的な話しだった
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- 現場を知らない聞きかじりの知識でアイドル論を展開しないでほしい
- cultural appropriation(文化の盗用)に類する問題が生じるのではないか
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- ご指摘ありがとうございます
- 当事者論やアイデンティティ論にも関係するので(私はファン文化に属する人なのか、そうだとすると許容されるのか、許容されるとすればそれはなぜか等)、今後の課題として受け止め、回答は保留したいと思います
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- 言い方が寒い
- 大げさな装飾過多でエモーショナルな単語が乱用されている文体がキツい
- 時流に乗ろうとしただけの軽薄極まりない記事だ
- 「こんなお堅い誰も興味持たない対象でもアイドル文化とのアナロジーで語ればみんな親しみわくでしょう、面白そうだと思うでしょう」みたいな押し付けがましさを感じる
- 限界オタなんですね
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- 我々、大学職員/学芸員/博物館職員/美術館職員も研究者と伴走しているのだが、認識されてなくてかなしい
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- ごめんなさい。もちろんあなたも含まれます
- 寄稿は、例示列挙とご理解ください
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- タイトル見て読むか迷ったけれど中身はバランス感覚優れた割とコアな記事だった
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- タイトルだけでなく本文もお読みいただき、ありがとうございました
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- 「探究の共同体」に貢献する手段として、愛やときめきを形で示すことを提案したので、こうした反応は嬉しいです
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- 記事へのコメントでそれぞれの研究者のスタンスや巻き込まれてるものが可視化されていく感すごい
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- わかります
- ところで、「推しの尊さはわれわれの前に現れて同じ時間を生きてくださっているという受肉の神秘に基づいていると思う」というコメントもいただきました
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- 推し研究者がトンデモに傾倒していく地獄を味わった
- かつて「推し」だった人が年を重ねて衰えるのを見ることほど辛いことはない
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- わかります……
- そういうときは「介錯」してあげるのですが、「斬られた」ことすら認識してもらえないこともあります。地獄です。
- なお、友人知人の研究者たちに、私がそういう状態になったら息の根を止めてほしい旨をお願いしています
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