パーソンズが、そしてそれを踏まえた油井報告が直面しているのは、まさにこの自己否認の必然性という問題であるように思われる。パーソンズはAGILに沿って分化した諸システムを包摂する一般化された価値について語り続け、最後には「人間の条件」という、ほとんど宇宙全体を包括する次元にまで到達した。それを受けて油井報告は、多元化し流動化した社会においてこそ、多元性を包摂しうる普遍的価値へのコミットメントが必要であると主張する。しかし普遍的価値について明示的に語れば語るほど、それが特定の社会という文脈のなかでの、理論社会学という極小セクションから発せられた声であるという事実に直面せざるをえなくなるのである。
価値の内容をより普遍化したり、多様性を容認する寛容なものへと改鋳することによって、この問題に対処することはできない。「寛容」をひとつの価値として掲げてしまえば、それが「寛容を認めない原理主義者」を排除するための基準として、非寛容的に用いられてしまいかねないからだ。現に世界のあちことで、この「寛容をめぐる闘争」が生じているではないか。
筆者もまた、多元性と寛容を擁護することこそが現代社会が(そして、社会学が)直面する最も重要な課題のひとつであろうと考えている。しかし多元性と寛容は結果として実現されねばならないのであって、めざしてはならない。それをめざせば、すなわちテロスとして理論内容に取り込んでしまえば、当の理論が種々雑多な声に混じって生じる微細な声のひとつであり、そのようなものとして事実的にのみ多元性を実現しているのだということが忘れられてしまうからだ。
したがって筆者としては、留保付きで油井報告に賛意を表明しておきたい。その留保とは、普遍的価値は主張されねばならない、同時ににその主張は失敗しなければならないということである。さらにまた、失敗しなければならないが、失敗することをめざしてもならないのである。
これはルーマンが、リオタールのポストモダン・テーゼ(大きな物語の終焉)について述べていることとパラレルである。この議論に接するや否や、それ自体が大きな(メタ)物語ではないかとの疑念が、ただちに浮かんでくる。このテーゼが自己論理的に(autologisch)適用されると、つまり自己を含むと、自身を反駁する結果になる。それが正しいとしたら、誤っている、というわけだ。従って、次のように定式化しなおすべきである。ポストモダン・テーゼは確かに全体社会の統一的特性を表している。ただしその統一性は、原理としてではなく、パラドックスとしてのみ主張されうる、と。パラドックスこそ、時代のオーソドキシーとなっているのである(Luhmann 1997:1144)。そして、パラドックスを現出させるためには、かのテーゼがポジティブに語られる必要があるということも、付け加えておこう。 ルーマンは、社会学理論が陥らざるをえないこのようなパラドキシカルな状態を、ドイツ・ロマン派との関連で「イローニッシュ」という言葉で形容するのを好んでいるようだ。いかしこのアイロニーは、理論の彫琢が無意味であるとか停滞せざるをえないとかいうことを意味しているわけではまったくない。先にも述べたように、理論の提起なしには、全体社会の統一性を体現するパラドックスも生じえないからだ。それゆえにわれわれはあえて、「フリッパント」という言葉を用いてみたいのである。
一方宮本報告が扱っているギデンズの場合、今述べた観点からすればむしろパーソンズ以上に問題を孕んでいるように思われる。ギデンズの理論のうちには、近代社会が達成した多元性と流動性を考慮するためのさまざまな概念装置が備え付けられている。再帰性も構造化も、そのような概念装置のひとつとして理解しうるだろう。しかし逆にその分だけ、理論を発話することが事実的次元において当の多元性・流動性の契機でもあるという事態を隠蔽することになるのではないか。ギデンズの理論はいわば、多元性と流動性を自己のパフォーマンスによって世界へと放出する代わりに、自己のうちに回収し、閉じ込めてしまおうとするのである。多様性について語ってはならない。多様性は、理論自身によって、身をもって示されねばならないのである。むろんこれは「複数のパラダイムの共存」を称揚する態度とは無関係である。そのような態度もまた。「語っている」ことになるからだ。
かつてルーマンはある席で、次のように述べていた。ハーバーマスは近代社会の自己記述を行っているだけで、真に普遍的な全体社会の理論をめざしているわけではない、と。ここでいう「真に普遍的な理論」とは、社会のあらゆる現象を、したがって当の理論自身をも、研究対象とする理論のことである。そのような理論は失敗へと運命づけられており、もはや素朴にシリアスな態度をとることはできなくなっている。もちろん、ギデンズの理論はその内容においては「素朴」とはほど遠い。しかし筆者から見れば、それはまだあまりにもシリアスすぎるのである。
荻野報告は、筆者とほぼ完全に問題意識を共有しているように見える。はたして「文化」という言葉を使うのが適切かという疑念は感じるが、普遍的に語ることによって社会のなかで「文化」がもつインパクトや、「文化」現象のうちに走っている(あるいは、文化が走らせる)亀裂を隠蔽してしまうのではないかと問題設定には賛同したい。しかし、「語り口」の改善によって打開策が見いだされうるのではないかと示唆している点において、荻野報告は筆者と袂を分かつことになる。
最後に、筆者と同様ルーマンに依拠する三上報告について。ルーマン理論は社会的なものを社会的なものによって説明しようとする理論であるという性格づけはきわめて卓抜であり、筆者も大きな示唆を得ることができた。しかし問題は、その「社会的なもの」の内実である。三上報告が「社会的なもの」ということで例えば、理念的なものに言及することなく社会現象を説明しうるような事実的メカニズムのごときものを考えているのであれば、それは少なくとも筆者がルーマンから読みとりうると考えている「可能性の中心」からは、ずれている。私見ではルーマンがいう社会的なものとは、最初に述べたような、当事者が言っていること(観察レベル)と、当人が「なしている」こと(作動レベル)との差異を指しているのであって、説明のために援用されうるような事実的メカニズムのことではない。理念的なもの=観察内容には収まらない事実的次元に注目したとしても、それを説明のために援用すれば、その時「社会的なもの」は観察内容へと回収されてしまうことになる。多様性について語る(観察する)ことが、事実的な多様性を排除するのと同様に、である。
ちなみに河本英夫は今述べてきた事態を、(通常の科学理論は認識論であるが)「オートポイエーシスは、すでに行為論なのである」というように表現している(河本 1999:67)。ただしここでの「行為」という言葉の用法は、ルーマンのそれとは異なっているが。