【注記】
*本稿は、1999年6月の関西社会学会ミニシンポジウム「ディシプリンとしての社会学」において、報告に対するコメントとして発表したものである。
報告者およびタイトルは以下のとおり。
なお本稿は他の報告とともに、『ソシオロジ』45-2に掲載されている。
社会学者が自己の営みを反省的に捉え返し、「ディシプリンとしての社会学」の可能性を探ること。ごく当たり前に見えるこの試みのなかには、われわれを戸惑わせるある種の亀裂が潜んでいるように思われる。社会学者は社会現象を記述・説明し、複数の社会現象間の関係を探求する。そこには、説明対象である現象に対する、シニカルとまではいわないまでも、距離を置いた醒めた態度が含意されているはずである。当事者が、自分がしていると考えていることと、実際にしていること、実際に引き起こしている効果 とのギャップへの注目。「理解しつつ因果的に説明する」というウェーバーの定式化や、「行為の意図せざる結果 」というコンセプトを考えてみればよい。対象となる現象のうちに「真理」や「正義」といった理念が含まれている場合には、この距離化がもたらす異化効果 は特に著しいものとなる。「あらゆる意味を担っている社会的コンテクストを解明するとともに、意味は……実質的で真理の資格を持つという特性を失ってしまう」(Luhmann 1970:68)からである。最近の例で言えば、エディンバラ学派の「ストロング・プログラム」をめぐる論争が想起されよう。
だとすれば社会学者が自己の営みを反省する際には、自己否認的な態度をとらねばならなくなるはずである。社会学的営為の可能性と意義を真摯に問い返しつつ、そのような問いを発するという行為が社会のなかで持つ効果
についても考えてみなければならないのである。後者に関してはさまざまな評価が可能だろうが、今世紀の社会学の(あるいは社会科学一般 の)歩みを振り返ってみれば、そこにある種の「アウラの消失」を認めざるをえないだろう。社会現象についての情報を発信するチャンネルは、もはや大学だけに限定されなくなった。情報テクノロジーの発展によって、その種のチャンネルはますます多様化していくはずである。この事実を社会学的に分析してみれば、「ディシプリンとしての社会学」についての議論が、その内容の如何に関わらず、全体社会のなかでほとんどインパクトをもちえないことは明白ではないか。再度ルーマンを引いておこう。「重要なのは、全体社会に関する社会学的理論が、全体社会システムの下位
システムである学問の、さらなる下位システムである社会学の観点から投企されたものであるにもかかわらず、近代社会の十分な記述を達成しうるか否か‥‥を吟味し尽くすことであろう。社会学理論は、自己の存在の矮小さを反省してみるならば、この点については懐疑的に判断することになろう」(Luhmann
1987:73)。 だとすればもはや社会学の可能性についてなど、語るべきではないのだろうか。しかし語るべき事柄に対する自己の矮小さを、あるいは逆に語るべき事柄の耐え難いほどの重みを自覚しつつ、それでもなお(あるいは、それゆえにこそ)饒舌に語り続けるという、加藤典洋(1997)の表現を借用すれば、「フリッパントな」態度をとることもできるはずである。
各報告について簡単にコメントを加えるなかで、この点について敷衍していくことにしたい(順不同)。