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機能分化と「主体性」

馬場靖雄

3:「現実」としてのテロ

 言説を、同じ言説の(一般性の)土俵の上でではなく、いかなる一般性ももたない介入によって、すなわちその言説が繋留されている個人ないし個別的な場所への物理的・身体的攻撃によって、「批判」すること。しかし逆説的なことに、この種の「批判」が有効であるのは、非言説的な物理的介入の意義が、言説内部に書き込まれているからなのだ。すなわち言説/非言説的な次元という区別が言説内部において引かれているからこそ、われわれは後者のレベルでの介入を、真の批判であるとか(ニーチェのケース)、スキャンダルであるとか(「社会学の社会学」のケース)、文明への敵対行為であるとか(テロのケース)いうように(言説によって!)区別し評価できる。そしてわれわれは社会学の領域においても、同様の事態が生じてくることを、すでに知っている。構築主義においてそもそもオントロジカル・ゲリマンダリングの問題をどう処理すべきかについて論じることが可能なのは、そこで登場する「実際の事態」が、あくまで理論の内部に書き込まれているものだからなのである。

 これをルーマンの用語で言えば、この言説/非言説という区別は、システム/環境(あるいは、自己言及/他者言及)の区別が、システム内部において引かれたものなのだということになる。あるいは、言説/非言説の区別が、言説の中へと再参入させられているということなのだ、と。ルーマンは、グローバリゼーションが進行する世界の中で、近代化の動きと伝統への固執を対比しようとする議論においても、この再参入が生じていることを指摘している。

ヨーロッパの合理主義における伝統への敵意(および革新への好意)は、それ自体ひとつの伝統である。他方で、以来のノスタルジックに、さらにはファナティックに伝統へと戻ろうとする動きはロマン主義に始まってここ数十年の宗教的原理主義においても見られるが、それは典型的な知的態度であると見なされねばならない。はるか以前からこの図式は自分自身のうちへの再登場によって規定されているのであり、それゆえにほとんど任意に適用可能になっているのである。(Luhmann 1997a:807-808

 以上の議論から、われわれは次のような帰結を導き出しうる。非言説的介入を、言説の「外」にある「現実」と見なして、ポジティブにであれネガティブにであれそれを言説に対置しようとする議論は意味を持たない、と。

 この点で、今回のテロに関して出された論評に限れば、「ルーマン派」のペーター・フックス(Luhmann / Fuchs 1989の共著者)のそれ(Fuchs 2001)よりもスラヴォイ・ジジェクのもの(Zizek 2001)のほうが、はるかにルーマン的だと言えるだろう。
 フックスによれば、今回の事態についてアメリカの側から発言している論者が前提にしているような、国家や文明圏を単位とする区別によって世界を裁断しようとしても無駄である。現実の世界は世界社会(Weltgesellschaft)であり、そこでは機能分化した諸システムが国境を越えて複雑に交錯している。構造的な貧困も、それを背景とするテロも、この複雑な事態の中で生じているのである。したがってわれわれが関わっているのは、西側世界(アメリカあるいはヨーロッパ)の問題ではない。そう考えるのは、実際に機能している単純化に基づいている。問題は、はるかに腹立たしくまたややこしい(komplex)ことに、社会の形式そのもののうちにあるのだ。(Fuchs 2001)

それゆえ国家と文明圏による図式を前提とする思考においては、この複雑な現実が無視され、単純化され、歪められてしまうことになる。実際には国家は政治システムの内部でなされた自己観察の帰結にすぎず、その背後にははるかに複雑な現実がある‥‥。

 この主張はもちろんルーマン理論の一部に基づくものであり、それ自体が誤っているわけではないし、また有用な指摘でもある。しかしそれは、次のようなそれこそ単純きわまりない物言いと共振してしまう危険性を孕んでいる。いわく、同一性の社会的構築過程だの国民国家の脱構築だのと言っていられるのは、国家という枠組が平和な言説空間を保証してくれているからである。その外側では弱肉強食の暴力によるパワー・ゲームが展開されているのであり、今回のテロが示しているのはまさにそのことなのだ。今やわれわれは言説による批判が事態を改善してくれるなどという幻想を捨てて、国家の枠組を守るためにそれ相応の力を揮わねばならない、云々。あるいはいわく、国民国家の同一性を、ことさら解体するには及ばない。それはグローバリゼーションというダイナミックで複雑な現実によって、とっくに解体され始めているのだから、云々。

 周知のように、ルーマンの「機能分化したシステムの閉鎖性・自律性」というテーゼに対しても、これとパラレルな批判がなされている。例えばリヒャルト・ミュンヒは言う。現実には機能システムの自律性は、多様な行為要素によって生産・再生産されることによってのみ成立しうる。ところがルーマンはこの点を無視して、機能分化したコードとプログラムの自律性のみを強調している、と(Munch 1996:34-35)。閉鎖性テーゼは、この複雑な現実から目を背けることによってのみ成立する、「ルーマンの夢」である、というわけだ。

 しかし実はこれらの物言いこそが、ローティーの「アメリカの夢」と同一の構造を有しているのは明らかである。つまりそれらは、言説の中に閉じこもるのを批判して現実に定位するよう主張しながら、当の「現実」のなかにわれわれを閉じ込めてしまうのである。

 ジジェクが突こうとしているのは、まさにこの点に他ならない。彼によれば、先のような物言いをする保守派が定位する「現実」とは、〈平和なニューヨーク/パワーゲームが吹き荒れるアフガンorパレスチナ〉という区別、あるいはその区別の一項としてのパワーゲームなのである。彼らは「ここ(ニューヨーク)でこんなことがあってはならない!」と言う。これはすなわち、件の区別の右項が左項へ侵入してくることを、境界の横断を、許さないということである。ニューヨークのただ中に、アフガンに見られるような「野蛮な」光景が出現することなどあってはならない、と。彼らが守ろうとしているのはあの区別そのものなのだ。しかし今回のテロが示しているのは、この区別こそが幻想に他ならないということなのである。「ポイントは二つの側が実際に対立しているのではなく、同じ領域に属しているというところにある」(Zizek 2001: 訳21)。

 ルーマンにならって言えば、テロは先の区別における境界の横断として生じたのではない、それは区別そのものに対する棄却(Rejektion)の作動なのだ、ということになる(棄却については後述)。ある図式(例えば、〈豊かで平和な「北」/貧しく争乱に満ちた「南」〉)に基づくシステムの作動に対する棄却を、当のシステムの内部に回収しては(当の図式の一項に押し込めては)ならない。棄却は、当の区別とは異なる区別に基づく観察=作動によって生じるからだ。この意味での棄却は常に生じざるをえない。特定のシステムだけで全体社会の領域総体をカバーすることはできないし、また仮にそうなったとすれば、当のシステムの作動そのものも不可能になってしまうだろうから(馬場 2001a: 第三章を参照)。可能なのは、棄却が悲劇的なかたちを取らないよう努めることだけである。

 ジジェクは結論としてこう述べている。スローガンは「こんなことがここで起こってはならない」ではなく、「こんなことはどこでも起こってはならない」であるべきだ、と。これはすなわち「ルーマン派」のスローガンでもあるべきだろう。


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