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機能分化と「主体性」

馬場靖雄

3a:補論──「踊ってる場合か?」

 上野俊哉は、テロに関するジジェクのコメントを、次のように批判している(上野 2001)。ジジェクは今回の事態を、〈虚構/現実〉〈シミュレーション/現実〉という均衡が、右項の左項への浸食によって崩されたことだと解釈する。脱色化されたNYの生活、そこで夜ごと繰り広げられる脱政治化されたカルチャー・シーンは支配のための虚構でしかなかった、いまやあの恐るべき一撃によってその虚構性がうち破られたのだ、と。しかし実際には虚構と現実は常に交錯しているのであって、支配への抵抗は(区別の一項としての)現実に依拠しなくても可能なはずだ。支配の道具としてのカルチャーに対する抵抗ではなく、カルチャーの中での抵抗も可能なはずだ。だから 「こんなときに踊ってる場合か? いや、こんなときだからこそ、踊ってる場合なのだと思っている」(上野 2001: 181)。

 この批判は半ば誤っており、半ばは正しい。

 それが誤っているのは、区別の一項としての現実、保守派が「平和ボケ」批判の論拠として引き合いに出そうとしている現実と、区別によって構成される意味空間そのものを棄却する現実、意味を生み出さない不毛な「現実という砂漠the desert of the real」(ラカン派のいう「現実界」)との間の、最も重要な差異を完全に無視してしまっているからだ。

 それが正しいのは、区別を棄却する現実(界)は、区別の一項としての「現実」においてだけでなく、その反対項としての「虚構」においても登場しうるということを的確に指摘している点で、である。区別が区別の上に折り畳まれることによってパラドックスが浮上し、作動の継続が阻害されるとき、そこには「現実の砂漠」が現れてくる。区別のどちら側から出発しても、それが常に可能である。現実(界)はどこか「外」にあるわけではない。

〔区別の中への区別の再登場を伴うシステムは〕解決不可能な非決定性(unresolvable indeternunancy)を有する。つまり、解消できない内的無規定性を伴うのである。‥‥そしてこの無規定性は、環境への依存によって与えられるのではない。環境を知らないということによって無規定性が条件付けられるわけではないのである。無規定性はシステム自身の内部において、区別されるもののなかへの区別の再登場という形象を通して、産出される。(Luhmann 1997b: 144

だから確かに、踊ることも現実でありうるのだ。

 蛇足ながら今述べたことは、ルーマンにおける「ゼマンティーク」の位置づけとパラレルである。ゼマンティークは単純な記述を行うための用具であり、したがってわれわれはそれをより複雑で歴史的に変動する社会構造へと差し戻してやらねばならない‥‥というのが、ルーマンの議論のポイントなのではない。ゼマンティークは確かに理念財ではあるが、それ自体もまた社会構造の一部であり、社会構造に──ひいては、自分自身に──異化効果を及ぼしていく。ゼマンティークに対する批判だけでなく、ゼマンティークによる批判も可能なのである。

 上野と同様に、学的論述においては軽んじられているものを逆手にとって論拠とするという論法を用いているのが、ローティーによる「人権」論である(Roty 1993=1998)。ローティーは、人権を擁護するために哲学的論証による根拠づけを行なう必要などない、現代社会において現に多くの人々に共有されている、他者への共感や、残虐さへの嫌悪の情に訴えるだけで十分であると主張する。この議論もまた、正しいと同時に誤ってもいる。

 それが正しいのは、次の点においてである。すなわち共感への訴えかけは、哲学における〈根拠/根拠づけられるもの〉という区別(〈根拠づける原理/根拠づけられる人権〉ないし〈人権/人権によって擁護あるいは拒絶されるべき諸現象〉)に対する「現実の砂漠」として登場しうる。「その共感こそが根拠づけられねばならない」というように区別のうちに引き込もうとしてみても、現に共感が一定の因果的効果を有しているという事実を否定することはできないのである。

 一方それが誤っているのは、〈空虚な論証/現実的因果性=共感への訴えかけ〉というハイアラーキーが維持されているからである。あたかも哲学的論証は単なる幻想であり、肝心なのはその幻想から脱却して共感という確固たる現実へと着地することだとでもいうように。しかしテロの場合と同様、〈論証という幻想/共感という現実〉というこの区別こそが、ローティーが頑なに守り抜こうとしている幻想なのである。

 共感への訴えかけが有効であるのは、それが二分図式の一項として、他項よりも優越しているからではなく、単に、実際に異化効果をもっているからにすぎない。それが異化効果を発揮するという保証はない。しかし少なくとも試みてみる価値はある。しかしまったく同様に根拠づけもまた効果を持つかもしれないのであり、やはりやってみる価値はある(踊ることと同様に)──現代社会において「哲学」が占める位置を考えてみれば、根拠づけが効果を発揮することなどまったくありそうにないとしても、である。

 共感への訴えかけも根拠づけも、効果を発揮しうるか否かは偶然に委ねられている。効果を発揮しうるという保証はない。それはすなわち、常に効果を発揮するチャンスをもつということでもある。しかし同時にどちらも、自分が偶然へと委ねられていることを知らない(かのようにふるまう)限りで有効なのだということも指摘しておかねばならない(10)。それを知ってしまえば、「必然的に、偶然性へと身を委ねねばならない」という、いかなる偶然性にも委ねられていない作動となってしまうからである。



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