カッシーラーの仕事は、われわれの生きる世界が文化によって存続し、そうであるべきであるということを示すための舗装整備であった。そのために、彼は、連綿と続いてきた知の営みとしての哲学史、その知が今日もまだ存続していることを示すための科学論、その知が人間に普遍的であることを示す言語哲学、知が成り立つ以前でさえ、そうした世界理解がなされてきたことを示す神話論など、きわめて多岐に渡る。その多様な哲学の体系的な展開は、われわれが生きる現実が未来への希望へと繋がっていることを示し、歩く者が迷い、躓かないために、傷ついた箇所を補修し続けるシジフォスの労苦であった。
彼の名前を知らずとも彼の敷いた道を歩いている者もいるだろう。実際、日本には旧来カッシーラー哲学そのものが研究対象となることは稀であったが、カッシーラーの翻訳は、それぞれの学問的テーマの専門家の手によって数多く出版されてきた。そのため、日本においても、彼の考察はたとえ批判的であってもよく扱われ、主著の表題にも冠されている「シンボル形式」といった主要概念や「実体」と「機能」といった概念対は──その起源や批判は等閑視されているが──頻繁に見かけられる。
今日、国際カッシーラー学会が立ち上げられ、Felix Meiner社からはレッキを中心に編纂されたハンブルク版全集と遺稿集が刊行されているだけでなく、Cassirer Forschungが叢書化されており、ドイツにおける文化哲学の復権運動もあって、カッシーラーは再び注目されている。また、彼の亡命経験からアメリカにおける研究も盛んである。ことに、現代の科学哲学の進展によって、その成果を踏まえた研究も見られるようになった。また日本でも『新カント派入門』が刊行予定であるなど、カッシーラー研究の土壌は出来がりつつある。だが、彼の業績は多岐に渡るために見通しを得ることが困難であり、彼が依拠していた19世紀後半の哲学史の伝統もいまだ多くのことが明らかになっていない。つまり、彼の仕事は、その多様さからしても、歴史的な厚みからしても、あまりにも多くのものを背負い込んでいる。そのため、一人で彼のシジフォスの労苦を担おうとすることはきわめて困難であるだろう。また、ヨーロッパを念頭に置いた「文化」という彼の枠組みが日本という異国の地でも妥当かどうかを検証することも、われわれの使命であるだろう。そこでわれわれはカッシーラー研究会を立ち上げ、カッシーラー研究にかんする本邦の研究状況の刷新し、彼の果たそうとした仕事を引き継ぎたい。
ただし、カッシーラー哲学への入門書は本邦には まだなく、また研究文献も数える程度しかない状況であり、カッシーラー研究への参入障壁は高いままである。そこで、われわれは中長期的な目標として、カッシーラー研究の指針となるような論集を刊行することを目指している。論集というスタイルを取るのは、対象的にも歴史的にも厚みのあるカッシーラーという哲学者に、複数人の視座から統一的な像を提示することは、その多様さを提示するのに適切であると考えられるからである。
(下山史隆)
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第01回 | 2025.04.19(土)14:00- | 下山史隆(京都大学大学院) | カッシーラーにおけるライプニッツ的モナド(仮) | 成城大学+ZOOM |
著者名 | タイトル | ほか書誌 | 刊行年 | |