『近代の観察』 |
まえがき
[‥‥] もちろんわれわれにしても、全体社会の内部において拘束力をもつかたちで全体社会を代表=表出すること(Repräsentation)はもはやできないという点は承知している。しかし話はこれで終わるのではなく、むしろそこから始まる。われわれがそう述べることによって始めようとしているのは、ある種のシステムの自己観察と自己記述の形式を反省することである。そのシステムにおいては、自己観察と自己記述が当のシステムの内部で提起され、実行される。ところがその提起・実行の過程もまた、観察され記述されることになるのである。
それについてはさらに述べうることがあるはずだ。その確信こそが、本書に収められたテクストの出発点である。理論の素材はすでに手元にある[‥‥]
[‥‥]
以下の論考は、当初原稿を準備せずに行なった講演に手を入れたものである。《近代社会における近代的なるもの》について講じたのは、1990年のフランクフルト社会学者会議でだった。本書第一章は、会議での討論の際に配布された草稿とほとんど同一である。《ヨーロッパの合理性》は、1991年にメルボルンで雑誌《Thesis Eleven》の編集者たちによって開催された、《理性と想像力》に関する会議に私が寄せたテーマだった。〔「想像力が世界を支配する」(ナポレオン)、「想像力が世界を救う」(サルトル)などの言葉もあるが〕この会議には世界を変えようとする意図などなかったように、私には思われる。同時期にモナシュ大学から、アグネス・ヘラーと同席するフォーラムへの招待を受けた。そこでの私の講演は、フォーラムのタイトル《偶発性と近代》に対応したものとなった。《未来の記述》を講演する契機となったのは、やはり1991年にレッチェで研究機関が設立されたことだった。この機関が扱おうとしていたのは、イタリア南部の複雑な問題だったのである。最終章《非知のエコロジー》で研究パースペクティヴをスケッチしたのは、このテーマを扱うまだ見ぬ貢献者が現れるのを期待してのことである[‥‥]
訳者あとがき
[‥‥]本書の特色は以下の諸点のうちに求められるだろう。
第一に、これまで比較的わが国に紹介されることのなかった晩年の(1980年代後半以降の)ルーマンの関心を、縮約的に示していること。1984年にルーマン理論の中間決算と目される『社会システム理論』(佐藤勉監訳、恒星社厚生閣)が出版されて以来、ルーマンはもっぱら、生物学由来の「オートポイエーシス」概念を社会システムの領域に持ち込んだ理論家と見なされて来たように思われる。しかしそれ以降のルーマンの関心は、この概念そのものを精錬することよりもむしろ、「機能分化」および「機能システムの閉鎖性」という二つの概念を鍵として(特に後者は「オートポイエーシス」概念と不可分なのだが)、経済、法、政治、学、芸術、宗教、教育……といった諸システムを比較しつつ解明することに集中していたようだ。本書でも随所で、これらの諸システムを構造的に比較する試みがなされている。この意味で本書は、各機能システムをテーマとしたルーマン晩年の一連の著作(いずれも500頁前後〜1000頁以上の大著)に対する恰好の導入編となるはずである。
なお、「機能分化」および「閉鎖性」を鍵概念としてルーマン理論全体を概観する試みとして、拙著『ルーマンの社会理論』を参照していただければ幸いである。また上記の一連の諸著作のうち、拙訳(共訳)『社会の法』に続いて『社会の科学』、『社会の芸術』、『社会の政治』、『社会の宗教』、『社会の社会』も法政大学出版局より訳出が予定されていることを申し添えておく。
第二にその結果として本書では、「オートポイエーシス」を初めとするシステム理論特有の用語をさほど使用することなく、「近代」「ポストモダン」「合理性」「偶発性」「知」「文化」といった社会学・社会思想の分野で周知のテーマが取り上げられている。ルーマンについて論じられる場合、「テクノクラートのイデオローグ」とのレッテルが貼られる結果となったハーバーマスとの例の論争時から現在に至るまで、具体的な論点に踏み込む以前に「システム理論とは本来こういうものであり、これこれの限界をもつはずだ」と断言するといった論調が散見される。「そもそもシステム理論によっては、既存の社会関係の布置を超克し、根本的に変革する可能性を考慮できないはずだ」、というようにである。例えば Drucilla Cornell, The Philosophy of the Limit, Routledge, New York, 1992 の第5章で展開されている、「ルーマンの〈オートポイエーシス〉は常に現在から出発するがゆえに、未決の未来を、別の未来の可能性を、現在へと還流させることができない」という趣旨のルーマン批判は──著者がルーマン理論(だと考えているもの)を踏み台にして打ち出そうとしている主張そのものは説得的であるにもかかわらず──その種の先入見に染め上げられているとしか思われない。この点に関しては本書第4章を参照されたい。「未来を考えうるのは現在における作動によってのみである」というルーマンの議論が、未来の可能性を閉ざすどころかむしろその逆であるということがわかるだろう。また拙稿「正義の門前」(『長崎大学教養部紀要』第37巻2号、1996年)でもこの問題について論じておいた。
ハーバーマスやコーネルらと同様の思い込みを抱いている読者には、本書を「システム理論」という色眼鏡抜きに虚心に味読されるようお勧めする。そうすれば、上記の諸テーマに関して特異な視角から、すなわち共同性を前提とすることなくどこまで社会性を考えうるかという観点から、徹底した探求と思考実験を繰り広げている一人の思想家の姿を見いだせるはずである。近代においては社会の構成要素であるコミュニケーションの領域全体を、観察の観察(セカンド・オーダーの観察)が覆い尽くしている。コミュニケーションは観察によって導かれるが、いかなる観察も他の観察によって観察され、相対化され、根拠を掘り崩されてしまう。もはや共通の外的対象や、安定した規則への定位によってコミュニケーションをかみ合わせることなどできない。それゆえにこそ(「にもかかわらず」ではなく!)複雑な秩序が成立してくることになる。しかしなぜ「にもかかわらず」ではなく「それゆえに」なのか。もし「にもかかわらず」を選ぶならば、「にもかかわらず」秩序を可能にする基礎やメカニズム(規範的なものであれ、統計やシミュレーションによって確定される事実的なものであれ、あるいは実体としては捉えがたいにもかかわらず、実在する「かのように」現象する擬制的なものであれ)を探り当てるという作業に着手せざるをえない。かくして再び相対化されることのない、コミュニケーションの「外」にある根拠が召還される結果になるのである。──本書の全体にわたって執拗に展開されているこの論点こそ、初期の組織論[⇒、⇒]から晩年の機能システム分析に至るまで、膨大な数に上るルーマンの著作や論文の根底に横たわる原型的な発想であると言っていいだろう。
その意味では本書は、晩年のルーマンというよりもルーマン理論全体を見直し、理解するための契機となりうるのかもしれない[‥‥]