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ルーマンの68年

馬場 靖雄

6:機能分化と自由に関する覚え書き

われわれは、調停不可能な亀裂によって特徴づけられる市民主体というバリバールのこの構想に、基本的には賛同したい。しかしバリバールの議論では、市民主体を構成するこの絶対的な亀裂が何に由来するのか、なぜそれが調停不可能なのかが十分には明らかになっていないように思われる。私見ではこの間隙を埋めてくれるのが、ルーマンの「機能分化社会としての近代社会」というテーゼである。しかしこれはすでに別の論考において扱われるべきテーマである。とりあえずここでは、今後の展開方向を、ごく簡単にスケッチしておくに留めよう。

 特定の二分コードを前提としたコミュニケーションすべてよりなる機能システムは、それぞれの内部でそれぞれ独自の仕方で「理念と現実」「普遍と特殊」等の軸を設定しうる。例えば法システムでは前者は、概念法学・対・利益法学という対立図式で表現されることになる。この対立軸によって、社会のなかで生じるあらゆる事態にアプローチすることもできるし、その点でこの対立軸は現実的な意味をもっている。しかしそれはあくまで法システムにとっての意味にすぎない。すなわち機能分化が意味しているのは、複数の普遍性が存在しており、それらの間の関係は媒介も統一も不可能な、ゴットハルト・ギュンターの言う「棄却」(Rejektion)でしかありえないということなのである。

 ルーマンは機能分化した社会における個人を、包摂によってではなく排除によって位置づけている。いかなる個人も常に複数の(潜在的には、すべての)機能システムに関わっている。個人が特定の機能システムに包摂されつくしてしまうことはありえない(ありうると考えるのは、個々の機能システムそれ自体だけである)。それゆえ個人とは、諸機能システムそれぞれにおいて生じる、それぞれ独自のコミュニケーション連鎖が交差する、重層的決定の場である。システムから見れば個人は、システムに属すると同時に、他のシステムによる過剰な(重層的な)決定を含んでいる(uberdeterminiert)、規定不能な存在なのである。この規定不能性は現実には自己(特定のシステム)のコードが他のシステムによって棄却されるというかたちで生じてくる。あるシステムからは、この棄却を見通すことも意味づけることもできない。

 この棄却の見通しがたさが、個人の「自由」として現れてくることになる。どのシステムも他のシステムにおけるコミュニケーションの接続を統御できない(可能なのは、例えば「法システムから見た政治システムの統御」のみである−−政治システムは同じ事態を別様に、つまり法によっては統御されていない状態として、観察するだろう)。それゆえに個人が孕む自由は、取り消しえない基本権として現れてくることになる。ただしこの基本権としての自由は、それ自体として存在する人間の「本質」といったものに基づいているのではない。それが取り消しえないのはむしろ、複数のシステムの分裂から生じる効果だからである。個人の自由は、システムにとっては作動を制限するマイナス要因などではない。それこそが、複雑に交差しながらも互いに自律している、分化した機能システム間の関係を維持するために役立つのである。したがって機能分化によって達成された現代社会の複雑性のレベルが維持されるべきであるならば(「べきである」と断言する理由は存在しないのだが)、基本権としての自由は取り消し不可能である。この点で、システムと自由とが敵対関係にあると考えるのは誤っている。

 確かに今述べた意味での自由は諸機能システムの分化から生じる派生物であり、スピノザが言うように、われわれの無知から生じる錯覚にすぎない。しかしこの無知は(機能分化という枠組の内部では)必然的なのである。またルーマンのシステム理論にとって、この自由は「論証」の対象ではない。馬場 2001a, 16-17で述べておいたように、「自己言及システムが存在する」あるいは「すでに対象の側にシステム/環境の線が引かれている」というテーゼから出発する。このテーゼは、自己確証的であると同時に自己否認的である。自己確証的であるのは、このテーゼ(の発話)もまた特定のシステム(Wissenschaftssystem)の作動として生じるからであり、自己否認的であるのはそのシステムの「外」(環境)が存在することを含意しているからである。「自由」は、この自己否認によって確証される。システム理論は自由がいかにして可能であるかを説明するのではない。それは自由を、自己否認を通してパフォーマティブに再生産するのである。

 この、諸システムによって重層的に決定されているがゆえにどのシステムからも排除されている「自由な」主体に、近代社会−−ルーマンにとってはそれはまさに「機能分化社会」そのものなのだが−−とともに誕生した主体、すなわち「市民主体」という名を与えることができるのではないかというのが、今後さらに掘り下げてみたい論点である。もっとも、それがジンメルのテーゼの再定式化以上のものになりうるのかどうかは、いまひとつ確信が持てないのだが。



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