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社会学的に観察する/社会学を観察する

馬場靖雄

 

 以上のように各報告は、個別の理論家ないしテーマを通して現代社会が直面する問題と、それへの社会学的貢献の可能性を解明しようとする、示唆に富むものであったといえる。筆者としては個々の論点に対して異議がないばかりか、むしろ積極的に賛意を表したいと思う。ただし、油井報告に関して述べたのと同様の留保をつけた上で、である。すなわち社会学は、普遍的な理論を物語ることをめざしつつ、それに失敗することを通して現代社会の再生産と変容に(ルーマン流にいえば、オートポイエーシスに)貢献するのである、と。

 あるいは言語行為論に由来する用語を借用して、次のようにいってもいいかもしれない。ディシプリンとしての社会学の存在意義は、コーディネーターも述べているように、「社会のグランドデザイン」、すなわち統一性としての社会総体に関する言明を産出することにある。しかし社会学は、コンスタティブな次元においてその種の言明を提起することを通して、パフォーマティブな次元における不統一と亀裂を生ぜしめるのである、と。

 このような社会学の営為は、実行容易であると同時に実行困難でもある。容易であるというのは、われわれは現に日々の営みのなかで普遍的に語ることに失敗し、コンセンサスよりは異議と論争を引き起こしているからだ(例えばサリン事件の際に一部の思想家から投げつけられた、「それは社会学的な説明にすぎず、思想としてのオウム真理教を解明できていない」といった侮蔑の言葉)。これは高度な機能分化という現代社会の現状に由来する事態であり、理論内容を修正・改善することによっては対処しえないのである。

 同時にそれは実行困難でもある。失敗する、あるいは失敗しているということ知って、それをめざしたり開き直ったりすることはできないからだ。めざされた失敗は、もはや失敗ではないのである。

 それゆえにわれわれ社会学者にできることは、十字架の上で発せられたあの言葉をもじって、こう祈ることぐらいであろう。  神よ、われらを哀れみ給え。われらは自分が何をしているかを知ることを、許されていないのです。



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