二クラス・ルーマン『社会の法』
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訳者解題(文責:馬場)
本書は、晩年のルーマンが取り組んでいた『社会の……』と題された一連の著作からなる研究プロジェクトの一部である。(「……」には、経済・法・科学・芸術・政治など、機能分化した下位システムの名称が代入される)。同時に本書は、初期の代表作『制度としての基本権』(木鐸社)や『法社会学』(岩波書店)以来数多く発表されてきた、法に関するルーマンの著作の総決算に相当する。もっとも本書以降にも法に関しては『十二匹目のラクダの返却』と題する著作が出版されているが(Gunther Teubner (Hg.), Die Rueckgabe des zwoelften Kamels, Lucius, 2001)、これはルーマンの1985年のエッセイと90年代に行われたインタビューを中心としたものである。
ルーマンは『社会の……』シリーズのどの著作においても、当該の機能領域が自己言及的に閉じられていることから出発する。法は法的作動、すなわち「合法/不法」のコードを前提とするコミュニケーションのみによって再生産される、というようにである。そしてこの閉鎖性から帰結する、諸機能システムに共通する一連の機構が、各々の領域固有の特性を考慮しつつ解明されていくのである。そのような機構としては、二分コード、コードとプログラムの分化、独自のコミュニケーション・メディア、セカンド・オーダーの観察、構造的カップリングなどを挙げることができるだろう。
「機能分化したシステムの自己言及的閉鎖性」を出発点とし、またそれを一貫して強調するルーマンの機能分化論は、例えば芸術システムを扱った『社会の芸術』に関しては比較的抵抗なく受け入れられ、芸術家とのコラボレーションも行われたようである(Institut fur soziale Gegenwartsfragen, Freiburg i. Br. / Kunstraum Wien (Hg.), Art & Language & Luhmann, Passagen Verlag, Wien, 1997など)。しかし本書に対しては逆に法学およびその周辺から、激しい批判が寄せられることになった。批判者いわく、ルーマンは法システムというものを、あたかもより広範な社会的文脈(日常的な道徳意識や習慣、宗教的信念、政治権力など)から切断されて自律しているかのように描き出している。これは、法のことは専門知をもつ法律家に委ねておけばよい、規範的な観点に基づく倫理や道徳を持ち出して法を批判してみても無益であるという、専門家による支配を正当化するイデオロギーに他ならない云々。この種の批判の代表格としては、ハーバーマス(河上倫逸/耳野健二訳、未來社)『事実性と妥当性』下巻216−223頁(本書より前に出版されているが、批判の趣旨は同一である)や、中野敏男『近代法システムと批判』(弘文堂)などがただちに思い浮かぶ。あるいは近年フェミニズム法学の旗手として注目を集めている、ドゥルシラ・コーネルに登場してもらってもよい。
法実証主義の最新のブランドは、ニクラス・ルーマンによって提供されており、オートポイエーシスの名によって続けられている。しかし名前は新しいとしても、法実証主義の究極のプロジェクトは同一のままである。それはすなわち、法的命題の妥当性の問題を、現存の法システムによって内的に産出される妥当化(validation)のメカニズムに訴えることによって解決することである。……オートポイエーシスとしての法という概念のまさに中核は、規範的に(認知的に、ではないにしても)閉じられたシステムの自己維持というこのアイデアなのである。
Drucilla Cornell, Time, Deconstruction and the Challenge to Legal Positivism, in:Jerry Leonard, Legal Studies as Cultural Studies, State University of New York Press, 1995, p.234
ルーマンの法システム論は現存の法から出発し、それとの自己回帰的な関係の中でのみ法の変化を考える。したがって既存の法によって排除されている声なき声を考慮しつつ、法を根本的に変革する可能性は最初から排除されているのである、と。
蛇足ながらコーネルはこう続ける。オートポイエーシスに基づくこの構想は、ルーマンの時間論において「現在」が特権化されていることと不可分である。現在における、現存の規範体系との回帰的関係こそが妥当性を産出するとされているからである。一方デリダは、そしてデリダを踏まえるコーネルは、「未来の想起」という要素を導入することによってこの伝統的な時間概念を、またそれを前提とする法実証主義を脱構築しようとする云々。この議論がコーネルの「イマジナリーな領域imaginary domain」の概念と密接に関連しているのは明白である──しかしルーマンもまたスペンサー=ブラウンを引きつつ、「イマジナリーな空間」について語っているのだが。
さらにルーマン理論に依拠する論者の側から、この種の批判を考慮して閉鎖性テーゼの厳格さを緩めたり(グンター・トイプナー『オートポイエーシス・システムとしての法』土方透/野崎和義訳、未來社)、法の閉鎖性は専門家のみを利するものではなく、むしろ日常生活者に負担免除と選択肢の拡大というメリットをもたらす云々というかたちでこのテーゼを擁護したり(福井康太『法理論のルーマン』勁草書房)といった議論が提起されてもいる。
これらの議論はそれぞれルーマンの法理論の問題点や含意を鋭くえぐり出しており、また同時に、現代社会において法が直面する諸課題に真摯に立ち向かおうとしてもいる。それゆえにどれもが傾聴に値する論点を含んでいると言えよう。しかし本書を繙けばわかるように、ルーマンの閉鎖性テーゼの焦点はこの種の議論からやや外れたところに位置しているように思われる。
閉鎖性テーゼが述べているのは、法と社会的文脈(道徳や政治など)との関係を考慮しなくともよいとか考慮すべきでないといったことではない。その種の考慮は常に生じるし、またそれは現実に何らかの効果を引き起こしうるという意味において有益でもある。しかしそのような「法とその外」の関係に関するあらゆる考慮が、他ならぬ「法/不法」のコードを前提としたコミュニケーションとして、つまり法システムの内部において生じているのではないか。われわれは法に限らず至る所で、科学についても政治についても芸術についても(あるいは、宗教についても?)、それらが過度に専門化・自閉化しているがゆえに生活者の視点との回路を見失っている、専門知と日常知の間の回路を再確立することによって自閉したシステムを開いてやらねばならない云々と語る。しかしそのような語りは常に、それらの領域について集中的に考察する一種の専門家の観点に基づかざるをえないのではないか。それはちょうど、専門化した近代科学が身に纏っている客観性の仮象を打破して、絶対確実な知の基盤に到達しようとした現象学が、それ自体高度に技術的な専門知として登場してこざるをえなかったのと同様である(ルーマン『権力』勁草書房、p.191)。
ルーマンが本書の最後における「排除と包摂」をめぐる議論において示唆しているように、そのようなかたちで「生活者」をシステムに引き入れることは、「生活者」を当のシステムの観点から一面的に扱い、その意味で「抑圧する」ことにならないだろうか──ガヤトリ・スピヴァクが、インドにおけるサティー(寡婦殉死)の実行者を「被抑圧者」としてカテゴライズすることを問題視している(批判したり否定しているわけではない)のと同様の意味において、である(上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』、みすず書房)。閉鎖性テーゼによって指摘されているのは何よりもまず、われわれはこの種の「抑圧」なしに「外部」との開放的な関係を取り結ぶことなどできないという点なのある。コーネルやトイプナーの議論と同様に、これもまた一考に値する論点ではないだろうか。
このように、一見すると単なる「テクノクラートのイデオロギー」にすぎないように見える閉鎖性テーゼから、意外な方向へと思考の糸を紡いでいくことも可能であるように思われる。「進化」「構造的カップリング」「コミュニケーション・メディア」などのいかにも無味乾燥に響く論点に関しても事は同様であり、本書の価値はそのような読みに対して開かれていることに(も)あると言えるだろう。
ルーマンが存命であったなら、今述べてきたようなないささか強引な読みを無下に退けるといった真似は、おそらくしなかったはずだ。現にルーマンは本書「序言」の最後でこう述べているのである。
ここでわれわれは、ユダヤ的律法解釈の流儀を想起しなければならないだろう。すなわち、ある程度意見の相違が存在するのは望ましいことであり、そのような相違自体が伝統として保存されるべきである、と。(本書v頁)
(この解題には、本書「訳者あとがき」と重複する部分が含まれている。)