日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

社会学とは伺か。日頃のご愛顧に感謝 ──の、番外編 

ハァ?
2002/02/11作成
2004/06/07 もるたんさんからのリンクを追加
次の概念の意味をやさしく教えて下さい。
1)振動
2)re-entry
3)固有値
→こっち

なにもワタシが社会学語らんでもいいじゃないの、と自分でも思う*んですが、ま、せっかく名指し**していただいてますので、書けることは書いてみましょう。今日は休日だし。 思いつきの床屋談義だってのはご容赦を。
 でもね、こーゆーのって、個々の社会学者が ジツゾン的に引き受け・負担を負うべきこと*であって、「議論する」ようなことでもないんじゃねーの、とちと疑問にも思いもするわけですが。
 #これ書き込んだ人が「ラディカル・リフレクシヴィティ」論の信奉者であるようにもみえねーし。

 ま、いいんだけど。

* ワタシ、自分の本業では、ちゃんと「サーヴィス業者」としてのジツゾン引き受けてるんで、他人様の畑耕す(あるいは荒らす)こたないのよね、というほどの意。
** これを書いたのは、2ちゃんねるで【ルーマン】および【日曜社会学】のスレがたってたときでした。該当スレは、もう dat 落ちしてます。[2003/06/11]
ところで、もっと“まとも”な「うけこたえ」を読みたいヒトは、たとえば明治学院大学社会学系のサイトにおいてある →このファイル をみてみたりするのがよいかもしれません。

【リンクがえし】20040607

もるたんさんからリンクしていただきました。(ちょっと難しくて何言ってんだかわかりませんが....)
・「ルーマンばかはなんでこんなにバカなのかの証明
▼2004年05月27日:「大人気なく反論してみる」
▼2004年05月28日:「原典・原理主義者との付き合い方」
もるたん先生カテゴリー@de-Blog
・社会学って自慰行為だね。
・ゴミみたいな誰もわかんないような難解な論文書いて、なんのイミあんの?
・他の社会科学では、「社会学」って蔑称的ニュアンスを用いてしばしば使われているんだけど、知ってる?
◇社会学って自慰行為だよね?
今だ!2ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄        (´´
    ∧∧    )      (´⌒(´
  ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄  (´⌒(´⌒;;
      ズザーーーーーッ
◇ただゴミ論文書いて、それで社会を変えているかのような口調で話してるのがルーマンフォーラムにもいるだろ。イタいんだけど? 社会学者が社会を変革してるんじゃない。実際にやっているのは、さまざまな分野において、現場に働いている人だろ(#゚Д゚)ゴルァ
●「社会を変えているかのよう」ですか(^_^;)。 具体的にはどの発言でしょう?  というか・・・あなた、厨房ですね?
●「理論的」営為が、何かを「変える?」とか何かの「役に立つ?」とかいった曖昧なモノイイをする方に対しては、ケインズの『一般理論』の序文だけでも──困難は新しい思想にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されてきた人々の心の隅々まで広がっている古い思想からの脱却にある、云々──想起していただいて(;´Д`)、お茶を濁したいところですが。。。
●で、社会学者の「現場」はどうなります?
◇ハァ (゚Д゚)?
●つまりですね:
  • 【A】社会学者が社会を変革してるんじゃない。
  • 【B】さまざまな分野において、現場に働いている人が社会を変革している。
と並べて語るときに、AとBの抽象度が違いすぎるでしょ? 【A】のほうが(質問者にとって)身近な事象の観察に基づいてて(あまりにも)具体的なのに比べて、【B】のほうはあまりに抽象的でしょ? だからちゃんとした対比になってないです。言い換えると、「イメージ操作」以上の価値がないです。この質問。
●「社会を変える」という言葉が何を指すかはさておき、とりあえずそれで「何かイミしうる」と前提しておくとして、です。もっとも簡単には、このテの議論は次のようにショートさせることができますよね。つまり:
  • 「さまざまな分野において、現場に働いている人が社会を変革している」
  • ところで、「社会学は“さまざまな分野”のうちの一つである」
  • したがって「社会学は、自らの現場において、社会を変革している(/しうる)」
云々、みたいな(苦笑。
●だから、質問者の前提をそのまま受け継いでも、「あくまで社会の1分野として[=超越的ではないが]」というタグイの限定をつければ、
  • 【A'】社会学者も社会を変革しうる
といえることになっちゃう、と(しかもまぁ、この程度ならあるイミ穏当な主張ではありますわな)。・・・で、こうもいいたくなる:「こんなハナシして面白い?」(あるいは、「キミこんなハナシしたかったんじゃないよね?」か。)
●で、逆にいうと、このテの質問をまともなものにするためには、そもそも/それこそ「さまざまな分野」とか「現場」とかっつーモノイイ自体を、社会学的に吟味してみる、というプロセスを踏まないと、だめなんじゃないですか?
◇というかね、本は読まれないと反応は来ないし、政策提言なら、政府関係者に読まれるかその人と関係のある人が読まない限り、提言しても無意味。それなのに、ゴミみたいな誰もわかんないような難解な論文書いて、なんのイミあんの?といいたいわけだよ。
●なるほど。
●まぁ、ルーマンフォーラムな人たちに期待できないのなら、ぜひあなたが頑張って下さい。(「読まれるべきもの」は平易であるべきだ、というのは「議論」するようなことではないですね。成し遂げられるべきことや、個々の著作なり論文なりが「実際に平易か否か」と判断されるべきことではあっても。そのイミでは、「おまえの書いてることわけわかんねぇんだよ」というタグイの発言をちゃんとしてあげることは、“いいこと”ではありましょう。) それはそれとして。
●「社会を変えているかのよう」だという判断の前提にある、社会を-〈変える/変えない〉という区別について考えてみると; こういう区別って、してみたところで、「理論には、いいものもある。悪いものもある」「“受け手”へのアクセスの仕方には、適切なものもある。不適切なものもある。」という話にしかならないですよね。で、そういうハナシって、結局は程度の問題にしかならない。しかも、“どんなもの”が、いいかわるいか、適切か不適切か、その条件は?──と考えるなら、それはすでになかば理論的な問いをたててしまっていることになる。とすると、あとは“そういう”タグイの問いをたてて、通常科学的営為にいそしめばいいことになってしまいます。──ま、それでもいいけど。 それはたとえば、「社会学者には、優秀な人もいればダメなヤツもいる」というのと似たようなタグイのハナシじゃないですか? で、答えといえば「そりゃごもっとも」でしかありえない、という(^_^)。 つまり・・・ほとんど“なにもいってない”のと同じでは? (それってナンのイミがあるの?)
●で、さらにいうと、そこには「制作・生産pro-duction」についての前提が控えているわけです。「何かを作る・生み出すということは、アタマの中にあるものに形を与え(マエに-引き出しpro-duce)、それによって外界に影響を与えることだ」といったタグイの。あるいは、モノゴトを(事後的に)「結果」とか「帰結」とか「効果」とかで量るような、また(事前-的に)「目的」で量るようなタグイの。 で、その「目的」なり「効果」などなどなりにそぐわないものは、「無意味」だし、そうであるならば「自慰行為」にすぎない、と。(なるほどこのテの前提は、そりゃいつでも──すでに複合性の縮減として──つねに重要です。でまぁ、それはそれで「大事に考えていただく」としても──)でも、そもそも学問研究ってのは、「直接的な目的」を一旦断ち切ったところでこそ成り立つ、というのがメジャーモードなハズなんでねぇ。それをトッパラって「研究の効果」について語ってしまうと、かならず一面的な批判をすることにはなるでしょうね。
●それに、社会学の理論や制度を「優れた・世に影響を与えうるもの」と「そうでないもの」に分けるようなタグイの議論は、科学史を“ティコブラーエやラプラスやマックスウェルなど(の残した「優れた業績」)を中心に考えてしまう”のと同じくらい、また音楽という営為をヒットチャートや「大作曲家とその作品」を中心に考えてしまうのと同じくらい、社会学的には素朴です(それらが無効・無意味とはもちろんいいませんが)。つまり社会学的に考えるかぎりは、《学問研究というのは、ほとんどが「優れていない」人たちによる-「目を見張るような結果・効果を残さない」言説によって-成り立っている》、と考える方が、当をえているはずです。そうだとすると、あなたは「社会学的に自明な事実」に対して驚いたり怒ったりしていることになるわけですが。。。
●そうではなく──社会学を、はじめから、あなたのいう「さまざまな分野」の一つとして考えたうえで──、「なんのイミあんの?」という質問を、たとえば「サービス業という観点からみたとき、社会学の現状はどうなのか?」といった(ささやかな)問いに変えてみた方が、社会学にふさわしくも考えやすいものになるんじゃ・・・などと思うのですが・・・、どうでしょう?
◇というかね、他の社会科学から見れば「社会学」って蔑称的ニュアンスを用いてしばしば使われているんだけど、知ってる?
●はい。
●一方の人文諸科学から他方の社会諸科学まで、はては自然諸科学などなどからも、とくに近接している分野であるほど、社会学は攻撃・嘲笑の対象になっているようにも思います。
●しかし、たとえば
  • 【Q1】「社会学者にはなぜドキュソが多いのか?」
といったモノイイは、面白くないです(もちろん「社会学にだって優れた業績はある!」とかいいかえすのはもっとダメ)。 社会学者以外の人達にとってはそれを不思議がったり面白がったりすれば充分でしょうが、社会学的には、それではまるで不十分でしょう。
●「社会学者にはなぜドキュソが多いのか?」 ──という問いは、まずは
  • 【Q1’】「他の諸分野と比較」して、社会学にはなぜドキュソが多いのか?
と展開しないとおもしろくありません。つまり、個々の社会学者に「ドキュソ性」を帰属させてみてもしかたがないです(個々の「噺」としては「面白い」かもしれませんが)。
●そして社会学を「比較」の内に置いてみると、「社会学はなぜドキュソか?」という問いは、次の問とパラレルだと考えられないでしょうか?
  • 【Q2】社会学が、諸科学のうちでも、事実として・歴史的にみて、最-後発組の一つとして分化してきたのはなぜか?
つまり──社会科学に限っていっても──ほとんどの諸学が分化・制度化したあとになって、ようやく社会学が・「遅れて」制度化された、というのはなぜなのか?・・・ということを考えてみるのが、この問いを考えてみようとする際の一つの途なのではないか、と。(もっと簡単にいえば、「社会学はなぜ制度化するのが難しかったのか」ということになりますか)
●この問いに答えることは私の仕事ではないので、とりあえずたてただけでハナシは終わりにしときますが(ふ、とりあえず、【Q1】のような(それ自体かなりDQNな)問いを【Q2】のように変更し・実際に調べてみることは、ただの「学説史研究」以上の意味をもつと思います。それが社会学が自らへの反省(性)を研究プログラムの中に組み込む、一つ*のやり方だと考えることができるならば、ですが。
*そして、「反省(性)を研究プログラムの中に組み込む」やり方は他にもあるわけなので、さらにそれらを相互に比較するならば、より「社会学的に面白い」ハナシができるはずです。
◇つーかさ、社会学が他分野から見下されるその原因は、「思想」系への極度の偏りにあると思うんだけど。どうよ?
●そうかもしれません。が、それに対して言えることは、上と同じです。つまりこの意見から発して、たとえば、
  • “見下されないためには、「思想」への偏りを廃すべき”
  • “理論を提起する際には、モデルとその反証可能性を示すべき”云々
などなどといった──それはそれで「正しい」意見なのかもしれませんが──「理論内容・記述内容の変更」についての見解のみを引き出すなら、それでは“社会学的に”不十分だろう、と。
●哲学的(自然法的・倫理思想的)思惟伝統から、社会諸科学が分化・制度化され、個々の──古い言葉で言えば──“実定的な学”が成立しうるためには、個々の学が「自らの扱わないモノ」を確定する必要がありました。つまり、伝統的にテツガク的なヴォキャブラリで考えられてきた問題を「扱わないで済ます」術を“発明”する必要があったわけです。そのコトからすれば、社会学に必要なのは──「思想系なハナシ」を排除し「理論が従わねばならないルールを策定する」ようなこと、「理論内容」に“外在的”な箍をはめること、ではなく──、むしろテツガク的諸問題を(「解決」ではなく)回避・迂回する術を“理論的に発明する”ことのほうでしょう。
●どういうことを考えているかというと。。。ちょっとよい例が思いつかないので・・・・文脈関係無しに数学の例を出しちゃいますけど(藁
●たとえば、「無限」とか「連続性(→無限小)」とかについて数学者が語るとき、そこには数学者自身が決めた「数学的な定義」があります。そもそもそれらの概念は、テツガク的な伝統にその起源を持ち、その伝統において──この例でいえば、特に中世末期から近世に──ずっと議論されてきたものだったわけですが、「数学的な定義」は、これらの議論の全てをカヴァーしはしません。したがって/しかもそこに於いて、伝統的に「問題」とされてきたものが“解決”されているわけではありません*。そうではなく、「数学的定義」においては、それによって「哲学的問題」を迂回・回避することができ、そのうえで「数学研究のためにはこれだけあれば充分」というものが採用されているわけです。
* たとえばε-δ論法を、ライプニッツが「問題解決」と見なしたかどうかを想像してみてください。
●ちょっとうまくない説明だったかも知れませんが・・・。 ま、もっとよさげな例を思いついたらそこは書き換えるとして。(たぶんよりよいのは、「道徳-経済学から経済学へ」といった例なんだと思うのですが。)
◇ハァ (゚Д゚)? 社会学はドキュソでいいってわけ?
●いや、よくは・・・ないでしょうが、しかし・・・、選択肢が、とりあえず現状では、
  • 「社会学を強くすることを目指す」
  • 「社会学が弱くあることを引き受ける」
のどちらかになってしまっている(そして学内部で立場規定合戦をやりあっている)、といえるとすると・・・それならば・・・──門外漢の無責任さでいわせて貰うなら──社会学は(少なくとも)もうしばらく(?)は「弱くある」しかしょうがないじゃないの、とは思ってしまいます。 ・・・もうちょっと穏当にいえば、「その間でバランスを採ろうと努めるしかないじゃないの」、というところでしょうか。
●まぁこれまでだって社会学は、先行する「成功」したとされる諸学(特に経済学)の理論から「おこぼれを戴く」ことで「なんとかようやくやってきた」ようなもんなわけです。で、そうした事情は今後もかわるとは思えないです。なので、そういった「弱い」立場に“甘んじる”のが──たとえば「人間としても格下」のようで(苦笑──嫌だというのならば、そもそもそんなふうに考えてしまう人が社会学を専攻してしまう、ということのほうが、私には謎です。
●「弱いのが嫌」だ、と社会学に対して文句をいうのは「倒錯的」ではないでしょうか? 社会学は、「自文化についての人類学」・「現在についての歴史学」というべきもの、つまり、“いま-ここにいながら・そうでないかのように、自文化・現在について観察しようとする”技術なのであり、そうした技術をもっとも必要とした人たちによって──つまりは「社会的-に-アレな・弱い-人たち」によって──必要とされ・開発されてきたものだった、と私は思います。
●なので、そもそも社会学は、「マージナルな」人たちに担われた「マージナルな」学問だったわけですから、「マージナル」であることの「弱さ」に耐えられないなら、社会学などやるべきではないように、私には思えます。。。 それとも・・・現在では、社会学からそうした性格が失われつつあるのかもしれませんが。。。まぁ私にはよくわかりません。
●というか、こんなこたぁ素人が「未来の社会学者さま」に言うことでもないやねぇ。。。ということで、このへんでサゲとくことにしたいと思います。

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