socio-logic.jp

自己指示、回帰、反省、自己関係

大庭 健
『自分であるとはどんなことか』(勁草書房:1997年)
出版から はや5年。そろそろだれか、「お返事」しませんか?
#というか、文中であからさまな罵倒を受けている東北大グループのかた、何か?(w
upload: 20020520/mailto:酒井泰斗
キーワードによる見出し
1)自己指示/自己関係
2)自己指示
3)区別/指示、スペンサー=ブラウン
4)回帰、自己指示、区別/指示、観察、パラドクス
5)自己指示(基底的/過程的/反省的)・自己観察

1)自己指示/自己関係

第2章 意味と意図、行為の共軛的実現
1 意味の時間的・間主観的な不確定性

p.63-4

[‥‥]

 意味は、事後的にしか確定しないという時間性を帯びている。そして意味の時間性は、単一個人の時間における「かつて・いま・やがて」という単線の系列での想起・予期には回収できない、間主観的な次元で展開する1。有意味な行為の遂行とは、続く時点での・相手の振舞いをまたずには確定しえない意味をあてにして、いま振舞う、ということである。そうだとすると、事前の意図にもとづいて行為する、ということにも、たいへん厄介な問題がひそんでいる。

 そもそも行為は、自分の振舞いが相手によってどう受けとめられるか、ということについての予期があって、つまり予期というかたちで未来を先取りすることによって、はじめて有意味な行為でありうる。相手が自分の振舞いをどう受けとめるかについて、まったく何も予期できないならば、わたしたちは、およそ、その人の前で・その人に向かって、行為を企てることはおろか、身体的に振舞うことさえ出来ない。

 このことは、提案、拒否、攻撃などのように、明示的に相手に対して・相手に向かってなされる相互行為のばあいには明らかである。しかし、書きもの、散歩、考えごとなどのように、特定の相手に向かって行っているのではない行為のばあいでも、事態は同様である。ひとりで何事かをしているだけのときでも、「なにをやっているの?」と問われれば、私たちは、ほぼ自動的に自分のやっている行為を描写できる。なるほど「はて、自分は何をやっているんだろう?」と、我ながら応えに窮する場面もある。しかし、それが日常なのではない。たしかに、いちいち意識してはいないが、しかしわたしたちは、自分の振るまいが他人の目にどういう行為として移るかを予期している。相手の受け止め方についての予期に基づくということは、ある振る舞いが意味をもつ行為であるための概念的な条件である。

(1)このように行為が、「時間的に後続する・他者が・応接すること」という時間・こと・社会という三次元を介して、当の行為自身へと関係するという事態は、ルーマンにあっては「(基底的)自己指示」と呼ばれるが(Luhmann, N. 1984[*], 182f., 199f., 600ff., u.a.)、ルーマンの議論にあっては、「自己指示」という意味論的な概念が、「自己関係」という包括的な形而上学的な概念に不当に重ねられることが多い。本書においては、この点をも問題化するつもりであったが、紙幅の関係で諦めた。行論に必要な最小限のことは6章で再び言及する

[*] 引用者注:「Luhmann, N. 1984」="Soziale Systeme"=『社会システム理論()()』

▲先頭

2)自己指示

第2章
4 行為の遂行と理解の共軛性

 意味は、そもそも時間的・間主観的であって、個人の内面に回収できない。もちろん、その公共性=超個人性は、科学を祀る人たちが掲げる「客観性」と同じではないが、個人の思惑を超越した外在性をおびている。

 意味が「一般的」だということは、誰の振舞いであろうと、振舞いBは行為A「として」理解され、反復されうる、ということを含意する。行為者が入れ替わったとしても、そのつどの行為者の個人史や内面生活に立ち入らずに、同じ行為の遂行と理解が可能なのである。そして、意味が「規範的」だということは、予期に反する事例が存在するにもかかわらず、予期は安定的だということであった。

 要するに、あなたもわたしも、「われわれは・みな・ふつう……を……として受けとめるはずだ/べきだ」という、《われわれ》という鋳型に自他を流し込むことによって、有意味な行為を遂行し、理解している。意味は、こうした規範的に一般化された予期というかたちで、意味にしたがった受けとめ方・応じ方を限定し、有意味な応接を、いわば引き出す「力」を帯びている。人-間としての有意味な生は、この「力」によって支えられてもいるのである。

 そうすると、行為の遂行と、行為の理解は、これまで考えてきた以上に、分かちがたく格みあっている。そもそも行為は、行為として理解される可能性なしには遂行できないのだから、行為の遂行と理解は、二つの独立した事象ではない。もちろん、行為が相手によってどう理解されたか、ということは、相手の次の応接をまたなければ確定しない。先のあなたと友人との会話においても、あなたの振舞いにおいて遂行された行為が何であったのかは、あなたの行為に応接する相手の行為が遂行され、そこから遡って事後的にしか確認できなかった。しかし、あなたが相手にたいして振舞ったとき、まったく何の理解も生じえないのであれば、あなたの振舞いにおいて、行為は遂行されていない12

(12)このように「自我が他人を他我として体験し、他我の体験のコンテキストにおいて行為するときに、自我が自らの行為に付与する規定が、当の行為を遡って指示する」ことを、あるいは「プロセスを構成する要素が、当のプロセスの他の要素への関係づけを介して、それ自身へと関係すること」を、ルーマンは「自己指示Selbstreferenz」と呼ぶが(Luhmann, N. 1984, 182, 199)、これは「自己指示」という概念の濫用である。これについては前注1でもふれたが、六章でもう少しふれる。

▲先頭

3)区別/指示、スペンサー=ブラウン

第6章 心システム・社会システムの自己創出
1 心・社会というシステム

p.220

 「システム」とは、もっとも広義には、一章でふれたように「要素のあいだの関係が定義されている集合」である。しかし、どんなに混沌とした集合でさえ、そもそも、その要素となる/ならないという区別(差異化)なしには存在しない。これは、古くは荘子が「彼と是は方(ならび)生ず」と語り、近くはスピノザやへ-ゲルが「区別とは否定である」と強調したとおりであり、最近くりかえしルーマンが強調しているとおりである1

(1)そもそも、なにであると「限定」することは、なにでもなく・なにでもなく……でもない、という「否定」が、当のナイナイ尽くしへ跳ねかえることである。(しかし、それだけのことであれば、古くは荘子が「彼是方生」と語り、近くはスピノザやヘ-ゲルが強調したとおりであって、いまさらブール代数の別記法でしかない“鍵算法”の解説を試みるまでもない。) 問題は、曲がりなりにも、なお連接しえているときには、連接についてのメタ・コミュニケーションが、すでに・そのつどコミュニケーションに織り込まれてもいる、ということである。[‥‥]

▲先頭

4)回帰、自己指示、区別/指示、観察、パラドクス

[‥‥]

 では、心・社会というシステムは、どのような特徴をもったシステムであろうか?

 まず第一に、心も社会も、システムを構成する、要素のあいだの関係(演算)にかんして閉じたシステムである。というのも、社会システムにおいて、共軛的に達成される諸行為のあいだには、有意味に連接可能/不能という関係が定まっており、有意味に連接しえたものは、また行為の共軛的実現である。そして、有意味に連接して生起した行為の共軛的実現は、ふたたび社会の構成要素となる。心システムにおいても、そのつど生じるさまざまな思いのあいだには有意味に連接可能/不能という関係が定まっており、その思いに連接しえたものは、また心の思いである。このように、社会も心も「有意味な連接」という演算にかんして閉じたシステムであり、その演算によって生成されるシステムである。すなわち、

【S1】心も社会も、有意味な連接という演算によって生成し、その演算にかんして閉じたシステムである。

 ちなみに、少々細かい話にはなるが、「演算にかんして閉じている」とは、社会システムや心システムを念頭において考えるときには、(まずは実数無限を考えないですむのだから)システムを構成する演算が「回帰的(リカーシヴ)」であるということだ、と考えてよい。演算Fがリカーシヴだというのは、雑駁にいえば、以前の段階での演算Fの結果が与えられていれば、段階をたどることによって、それ以降の演算の結果も確定する、ということを意味する。ところが、昨今の社会システム論においては、演算が「回帰的」であることと「自己指示」とが同値であるかのように語る解説書が横行しているので、注意が必要である1*。しかし、ここでは、こうした細かい話には立ち入らないことにする。問題は、心も、社会も、【S1】というだけでは、その特質をおさえることができないというところにある。

(1*) 肝心のこの点にかんしては、二章の注1でもふれたように、ルーマンじしんも、概念をひどく混同している。「自己指示(self-reference)」とは、たとえば「この文は日本語で書かれている」という文のように、表現が表現じしんを指示することであって、たんに回帰的(リカーシヴ)ということではない。回帰的関数Fは、その定義においてすでにFが用いられるので、いっけん自己指示的にも見えるが、それは見かけ上のことにすぎない。(‥‥)

 そもそも、「指示(reference)」とは、主題となる個体を他と区別して特定することであり、「述定する」とは、特定された個体へ区別を帰属させて命題を形成することである。「指示(Referenz)とは、他との区別というコンテキストにおいて、あるものを指す(bezeichnen)こと」であり、「その[指示のさいの]区別が、指示対象について情報を獲得するために用いられたとき、指示対象は、観察の対象となる」と、ルーマンが語るとき(Luhmann, N. 1984, 586)、彼はこうした当たり前のことを述べているにすぎない。ところが、このルーマンの文を、「準拠とは、あるものを、それ以外のものとの区別にもとづいて表示することだ」などと訳出して、“自己指示のバラドクス”を云々する人々が輩出するので、話は悲惨になる。(もっとも、自分を確認するために「指示する・引き合いに出す、集団(reference group)」を、これまで「準拠集団」などと誤訳してきたいきさつ上、やむをえないのかもしれないが)。

 ルーマンも気づいてはいるように、たとえば「わたしはいま日本語で話している」といった自己指示は、回帰的というよりもさらに複雑であり、また、それ自体としては何らパラドクスを生むわけでもない。パラドクスが生じるのは、あるタイプの自己指示文が否定形で述べられたとき、かつ、そのときにかぎる。しかるに言霊のさきわうこのクニにおいては、「回帰的→自己指示→パラドクス」という連想ゲームが「飛躍」ブランドをかざして飛び交い、けっきょくパラドクスの深刻さを骨ぬきにし、自己指示の問題性をも骨ぬきにしているのである。

※ ここで省略した箇所は、→こちらに纏めておきました。

▲先頭

5)自己指示(基底的/過程的/反省的)・自己観察

第6章
4 システム境界の認知

p.238

 そもそも、システムに参与して行為するとき、あなたもわたしも、ここでは、こうすれば「……として」通る、という行為の連接可能性を当てにして振舞っている。そのときには、暗黙にではあれ、システムと環境の境界が認知されている。じっさい、あるところまで来ると(ある時刻になるとか、べつの箇所に移動したりすると)、それまで連接しえた行為が連接しえなくなり、それまで行為であった身体的な振舞いが、行為としての意味をもちえなくなる。そのようにして、あなたもわたしも、「ここから先は、もっか参与しているシステムの外部だ」というかたちで、システムの境界の存在を認知している。

 こうしたシステム境界の認知は、システムを超越した視点からシステムと外界とを比較対照して、なされているのではない。そのつど何らかのシステムに参与して行為しているとき、あなたもわたしも、行為としての振舞いの意味と、行為の有意味な連接の可否を判断している。しかし、その《否》は、「他のように」という可能性を否定するのでなく、「他のようにもありうるが……として」という形で、諸可能性を棚上げして限定するという形態をとっている。このようにして、システムに参与して行為しているときには、すでに、システムに内在する視点から、システム境界が認知されているのである。

 たしかに、こうしたシステム境界の認知は、つうじょうは、「ここでは棚上げされている可能性一般の地平」として背景に退いている。しかし、言語という非在の現前ゆえに可能となったメタ・コミュニケーションにおいて、可能性の地平を非明示的にではあるが示しつつ、その対比をつうじて、システムが主題化される。システムは、このようにしてシステム内在的にのみ主題化される。どのようにトータルにシステムを対象化としようとしたところで、その営みじたいが、なんらかのシステムに内在し、そのシステムの視点から、そこに特有の有意味な連接可能性をよすがになされる他はない。

 もちろん、だからと言って、どのような内容のシステム認識も等価だ、ということにはならない。あくまでシステムの内部で、すなわち、それじしんシステムの構成要素としてであるが、システムを主題化した話が語り出されるとき、その話が、
 1.過去・未来という時間性、
 2.可能・必然という様相、
 3.他者とのあいだという社会性
という三つの非在の次元にわたって、どこまで整合的であるか、という違いはある。こうした整合性という意味での「客観性」は、重要である。

 しかし、システム認識が「客観的」だということは、システムと環境の双方に等しい距離をとった視点からの認識だ、ということではない。システム状態や、環境との流出入の描写も、システムでの行為連接の協調(相互増幅・相殺)をつうじて流布したり、しなかったりするにすぎない18。もちろん、そうした協調(相殺・相互増殖)のなかから、ある描写が、自己組織的に増幅されて一般化し、「真な」描写という社会的称号を、しばし独占する。これは、つねに生じる。しかし、システム認識の「客観的」な「真理」性もまた、個体的接触におけるできごとの協調の所産以上のものではない。

(18) 「社会システムの自己観察」というルーマンの議論は、その観察概念の多義性ゆえに、そのままでは承服しがたいが、ここでは立ち入る余裕がない。二章の注(1)および前注(1)でもみたように、ルーマンの用語法においては、「指示(Referenz)」と観察は、「ある区別という枠組みのもとで、あるものを指示する作用」(Luhmann 1984, 599)であり、「自己指示」・「自己観察」とは、
 1.システムの要素が、要素/関係という区別によって、要素じしんを、
 2.時系列システムでの過程が、以前/以後という区別によって、過程じしんを、
そして
 3.システムが、システム/環境の区別によって、システムじしんを、
指示し観察することだ、とされる(Luhmann 1984, 600ff.)。こうしたルーマンの所論は、諸概念のゴッタ煮の域を出ていないが、その要点は、たとえば、以下のようにもまとめうる。すなわち、他のようにもという地平において時間的かつ対人的に(つまり内容的・時間的・社会的な三次元で)、不可逆的ながらも不確定下で選択的に連接していく事柄のシステムにおいては、当の事柄そのものが、「……ではなく、……として」という“対他的な差異化の反照(はねかえり)”としてしか成立しない、と。