- 1 歴史学者がルーマンを読むことの意味
- 2 上流階層のゼマンティク発展の一般的傾向
- 3 初期近代の人間学について
- 4 「上流階層の相互行為」から社会統合機能が失われる、という議論について
- 5 細かい指摘
- 6 終わりに
90年代以降の日本の歴史学における流行のひとつとして、社会構築主義的なアプローチがあげられるだろう。その理由を挙げるならば、ひとつは社会科学が用いる概念が、単に状況を記述するだけでなく、それ自体が社会を構築する要素であったことへの反省であり、もうひとつは歴史学の「社会史的転回」によるデータの氾濫である。やや単純化された見方ではあるが、戦後歴史学の基本目的が「科学的概念による日常的概念の再記述」であるとみなすことができるならば、現在問題となっているのは、何を語れば対象を語ったことになるのか、という基準の不明瞭化である。「近代化」や「国民国家」といった基本概念は、多様な方面からの実証研究が進められた結果、なぜそれをひとつの概念・現象として記述することができるのかが問われることとなった。
対象を記述する際に用いる概念をそれ自体分析の対象とする社会構築主義的なアプローチは、この問題を(表面的には)解消する。たとえば、貧民の研究とは人々が貧民という概念をどのように用いるかについての研究であり、その限りで貧民の存在をひとつの実在として捉えているわけではない、というように。
とはいえ、エスノメソドロジーにならって「内容的知識/方法的知識」の区別を用いるなら、研究者の関心は前者に集中しており、貧民が「貧民という概念」を「自分のこと」として利用しうることは、自明の前提とされている。
考えるべきことはふたつある。
- 人々がある概念を自分のこととして、かつ説得的に利用できる条件について、
- その条件を、当事者の視点に即して、かつ特権化することなく記述すること。
ルーマンにおける、ゼマンティクの進化と対応した「全体社会の進化論」を報告者は、この水準についての議論として受け止めている。
※追記1
討論では歴史学の「目的」とは何か、という質問を受けたが、むろん、本書におけるルーマンの目的と、歴史学の一般的な目的が完全に一致していると言いたいわけではない。歴史学の目的をおおまかに①「個性記述」②「特定時点での社会構造の分析」③「社会変動に関する因果関係の特定」と分類するならば、本書が関係するのは②である。その一方で②を媒介として①・③はゆるやかに繋がってもいる。個性記述はある文化や構造の形象化されたイメージであり、社会変動は厳密な因果関係を想定することで対象が限定されるのを回避するため、相互連関という緩い制約を社会構造分析から借りてくる、というように。このように社会構造は歴史研究において重要な位置を占めているが、探求の対象が単数の構造なのか、(ルーマンのように)複数の構造であるかは、論者によって意見が分かれる。ただ、社会史研究では人口動態構造と経済構造の連関、経済構造と文化構造の連関、といった風に、「諸構造の総体」として全体社会を捉える傾向が強い。(遅塚忠躬
『史学概論』第1章を参照のこと)
- スペンサー流「進化論」との違い
- 「単純から複雑」「類型Aから類型B」「進化の必然的原因を古い社会の中に特定」から「ダーウィン主義的な基礎をひきついで」p201、変異・選択・安定化の過程の探求へ。
- 「物質的基盤か文化的基礎か」(=マルクスかウェーバーか)という問いから、それらが「変異・選択・安定化のうち、どれと、どのように関わっているのか」という問いへ。
いかなる場合にも、この問いを超えて「決定的影響を与える原因」という考え方にもどることなく、いかにして要求度が高く構造的に蓋然性の低い進化の推進力が生まれるのかについて、より明確な考え方にいきつく
p202
- どれほど進歩的なゼマンティクであっても必ず社会進化に貢献するとは限らない以上、ゼマンティクの進化と全体社会の進化の連関について考えるべき、という基本的姿勢には賛成。
- 新しい生産テクノロジー、人口学的変化のようなマクロ的要因も(例えば
「十分に構造化された偶然的条件」
p208として)進化論に組み込むことが可能である、とされているが、具体的にどう取り込むかについての一般的な方法論があるわけではない。
- そこに歴史学と社会学の共同作業の余地があるのだろうが、そもそも進化プロセスの抽象化が、機能分化への転換を経験的に記述するうえでどの程度役立っているのか(何をもって選択が行われたとするのかetc)、と考えながら読んでいくべきか。
- ルーマンの議論が「抽象化⇒具体的事象の適応」となっている以上、このような作業は必須だろう。
まずは以下の2章で本書の議論(主に第2・3章)の概略を記し、その後個別の論点に移る。
上流社会の相互行為が機能から分離し、独自の発展を遂げていく。
資質から業績へ、そして相互性へというこの歴史的連鎖は、同時に、行動の予期と帰責の基礎となる、より複雑になっていく因果モデルの連鎖である
p137
- ハロルド・ケリーに依拠して相互行為における因果関係を以下のように類型化。p137-8
因果モデル |
帰責対象の例 |
道徳的評価 |
資質=現実 |
高貴な生まれ |
事実評価 |
業績=精通 |
高貴な生まれという印象を与えるふるまい |
結果評価 |
相互性 |
原因の選択が可変的、内部自律的 |
相互行為連関での自律的評価 |
判断能力と意思決定能力は参加にいっそう依存するようになり、それを社会全体に「理性的に」一般化するのはいっそう困難になる
p139
-
- 17世紀末から18世紀にかけて相互行為に関するゼマンティクは、「高貴な生まれ」のような資質としてではなく、「節度」「謙虚さ」といった能力としてゼマンティク化される。
- 自己を知ること、他者に気に入られることが重要。
- 宗教と政治の分出
- 自己愛をめぐる問題により、宗教と政治の機能的重なり(階層秩序と神の定めた道徳的秩序の対応関係)が破たん
- 自己愛に陥りやすいのは、むしろ上流階層である。
- 自己愛を認識するため、他者と接触しなければならない。その他者についても自己愛に支配された人であることを前提としなければならない。しかし、他者を批判の対象とすることは平和を乱すことである。
⇒「啓蒙された自己愛」を「隣人愛」に引きつけて解釈することで、自己愛の価値を引き上げ、「隣人愛は「ただ宗教的な」意味しかもたない」ようになる。
- ヒエラルキー世界は維持されながらも、階層と政治は分離される(絶対君主)
- 上流階層は相互行為によって君主と関係を持ちつつも、そのこと自体は政治的有効性をもたない。
- 難解な学問や経済の話は、礼節や気晴らしほど重要ではなくなる。
- 新しい相互行為理論の要件である「他者の好意を得ること」は、もはや機能システムとは両立しない。
なぜなら、ある財の代価として、自分がその財の所有者として保持したいものを支払いたいとは、誰も思わないからである
p111
⇒相互行為の全体社会に対する意義は、相互の救済・慈善に限定。
- イギリスでチャリティーが発達したのはなぜか、という問題を考える上で示唆的。
- 相互行為の自己目的性が増大するほど、機能システムとの関係が薄くなる。
⇒では、進化の蓋然性を高めたのは何であったのか?
多くの兆候が示すところによれば、人間の基本的描写は、十七世紀には否定的なものに転じ、十八世紀には「もともと未決定である」といった形式上は同じように否定的な理解にしばられるのだが、この理解は肯定的に評価することができる。それは、人間が自己の否定性の否定をとおして形成され、育成されなければならないことを意味している。それだけに、そのために必要な否定の実践が、相互行為の領域において禁じられたりはっきりと拒絶されたりするのは、一見すると驚くべきことかもしれない
p124
- 17世紀における否定性の教説(否定的な自己愛、不安、貪欲)から、18世紀における否定性の否定(未規定性)の教説へ
- 機能分化社会において増大する否定の可能性を、人間学的なレベルで受け止める試み。否定性の否定は
「拒否は機能とそのコードをよりどころにしなければならない」
p126とされる。
- 人間は意味によって他者と共同の・同じ対象についての議論を語りうる。
- 特に分化形態が変化するとき、このレベルで混乱が生じる。⇒どのような規則によって他者の賛同や拒絶、合意に確信が持てるのかという問いの発生。
- 宗教による帰属問題の対応⇒自然は神によって創造されたものであり、法や罪は少なからず彼岸に帰属される。しかし、この理論ではすべての人があらゆる意味について異なる考えをもち、それを制約しなければならないという状況(!)には対応できない。P161
⇒代役としての人間学。
- 人間学の特徴
- 未規定性と自己言及
- 超越的なものから自然的なものへ
超越:人間は創造された霊であり、原罪によって堕落⇒罪や悪徳を手の届かない過去に
帰属させる。
ex.)「第1の永遠の法」と「第2の永遠の法」(リチャード・フッカー)
第二の法に違反しても、第一の法の内にある、という形で定式化される。
自然:一つの形態が二つの形態に置き換えられる、という点では同じだが、分岐点が現生に移動する(原罪のドグマを使わない)。⇒契機としての「自己愛」の問題化
ex.)「集合的な自己愛」と「個人的な自己愛」(ジャック・アバティ)
アバディ
集合的な自己愛は、正当で自然なものとしての愛である。個人的な自己愛は、悪徳で堕落したものとしての同じ(原文のまま!)愛である
p168
「三値の問題(ただ一つの可能性をもったレベルと、その下で二つの対照的な可能性をもったレベル)が二つの類型の対立に」
転換。p168
- 原罪のドグマが失われたことで、二つの類型の対立は自己自身に関係づけられる。
- 17世紀の後半には、自己言及は外部に根拠を持たないが故の不安定さ(「不安」「貪欲」)として評価される。
- こうした構造的過少決定への対応として、「環境」の発見とコミュニケーション・メディアの発達がおこる。
- 人間学における以上の展開は、機能分化への転換においてどのような意味をもったのか?
-
システムを自律的にすると同時に環境依存的にする自己言及への関係づけの形式が、いわば人間について試される
p178
不安の人間学のあり方と機能システムのあり方が「似ている」と言っているだけのようにも聞こえるが、一方では機能システムに対する「補完的役割」p153-155の創出にかかわっているように思われる。
- 不安の人間学による「環境への敏感さ」は、自己言及的諸概念と結び付けられる。
ex.)政治システム-公衆-煩わしさ、教育-生徒-感受性、科学-科学共同体-好奇心
否定性の形態は、人間学的になることができると証明されることによってはじめて、社会全体にとって重要な定式へと発展しうる
p191
- このように定式化された不安の人間学は、諸機能システムに向けて開かれているが、機能分化が進展し時と場合に応じて機能システムを使い分けるには、機能に備わった二項図式とそれを選択する人間とを区別する必要が出てくる。
そうなると、人間をある否定性として捉えることも可能になる。それは、あらゆる二項図式化に先行し、図式をあとから自己の規定のために用いるような否定性である
p195
⇒不安の人間学は機能システムごとに適用できる特殊人間学へと分解され、そのうえに過少決定性(未規定性)を保証された人間が位置づけられる。
Ex.)デカルトの「我思う」という自己言及は、思考内容の真/偽とは無関係
⇒真/偽の区別をそれ自体として検証することが可能に。
〔二項〕図式の内部で選択が行われるまえに、距離をとるための基礎として自己言及が作動のなかに組み込まれなければならない
p287-8
- 階層分化のリスクおよび決定能力の集中=階層分化の危機
- 階層間の不平等、階層内の平等を維持するうえで、上流階層の相互行為による象徴化が必要。相互行為は実際の影響力(=問題解決能力)を持たねばならない。ex.)華やかさの誇示。
- しかし、このような相互行為が(構造的理由により)影響力を喪失⇒純粋な(=自己目的な)「社交」に後退したことを示すゼマンティクが検出され、それが分化形態の転換した指標となる。
- これについては議論の出発点であるだけに、より具体的な事例検討が必要であるように思われる。(フーコーが論じたような)見世物的な刑罰のもつ意義の変化などが挙げられるだろう。
※追記2
討論で名前の挙がった安丸良夫の
『日本の近代化と民衆思想』 『出口なお』などは、ルーマンと比較的よく似たモチーフを別の視点たどった著作として、つまり階層秩序の「下からの」崩壊を扱った著作として読める。農村の荒廃をきっかけとして生み出された「通俗道徳」は一般化された人間学としての役割を果たし、また、通俗道徳を守っているにも関わらず貧困から脱出できないという事態は、階層秩序への批判意識を強めた。
とはいえ『社会構造とゼマンティク』の議論を、ヨーロッパ以外の地域に援用する場合の困難についても当日は議論となった。制度や概念の輸入・翻訳をどのように扱うのか、といった部分で、折衷的なアプローチが求められることになるだろう。
- もっとも狭い意味では
- 「印刷されたもの」の氾濫によるコミュニケーションの不確実性の増大
- 広範な階層間移動
を指すのだろうが、この点についてのルーマンの記述は非常に薄く(「複雑性の増大」という言葉が非常に便利に使われているという印象を受ける)、また、これらの要因が即座に分化形態の転換を導き出すわけでもない。
- 発展段階論を回避するため、やむをえない面もあるのだが、分化形態の転換によって(階層から機能へ)分化形態が転換する、という循環論法として誤読(?)する余地がある。
※追記3
ここでは因果関係の特定ではなく相互連関という弱い制限のもとで作業を行う、というルーマンの方針について言及したのだが、「循環論法」という言い方は因果関係を連想させる不適切なものであった。
- ルーマンは分化形態の転換について、問題史的アプローチで突破を図っているように思われる。
思想進化を決定的に保護する要因は……知識がそもそも問題設定の助けをかりてはじめて体系化され、結合されるという事態にある
p41
(ex.相互行為に対する宗教の分出について
十八世紀になって、たいへん重要な(また重要とみなされる)問いについてほかの構成をするようになったり、すくなくとも他の構成を認めたりするようになると、それが深甚な構造転換の合図となる
p121
⇒肝心の「問い」について明示的に書いてあるとは限らないのだが……。
- 既存の社会構造では解けない問題設定が、当の社会構造から提起されるとすれば、問題設定は進化する社会の境界的位置を占める。
- そしてこの問題設定は、まずは全体社会レベルで用意されなければならない。
⇒上流階層に対する規律化要求の増大(上流階層が最も堕落しているのではないか?)
これに対して階層分化を前提としたゼマンティクの流用(前適応的進歩=人間学)によって解決が図られる。
※追記4
討論ではこのように「問題設定」という概念を軸に解釈することについて、これ以外のルーマンの著作と比較しながら検討する必要とともに、「どこから・何から見て」問題なのか、ということにも答えなければならない、という指摘を受けた。問題設定の生成、といった場合、この時点では存在していない機能システムを前提にしてはいないか、と。すぐには答えられない。なお、最後の問いは悪い問いの立て方をしてしまった。二つ目については、この場合、旧ヨーロッパ社会の知的伝統に答えを求めるべきなのだろう。
機能分化した社会は、それ以前にすでに宗教、政治、経済、教育であったものの構造を転換させる
p155-6
- 機能の公共性の獲得(近年の市民社会論とも部分的に重なる)
- 階層社会においても機能は「役割」という形で存在している。
- 階層社会における機能=役割について本書のなかではさほど触れられていないが(それは必要な作業であるとも思うのだが)、ルーマンの主張を敷衍しながら例を挙げると、(階層社会における)王は「役割の配分」という「役割」をもっていた、と言える。(君主と貴族、幕府と諸身分の関係など)
- 役割から機能への転換
- (階層秩序に埋め込まれた)個人や家を越えた継続可能性
- 万人に対する参加可能性の保証・包摂要求
- 自己言及的な基礎づけ(典型的には二項図式)が一般的価値を獲得
- 非対称的関係の創出(政治-公衆、教育-子供、科学-科学共同体)
- これらの総体として機能システムが「ある」ということなのだろうか。
※追記5
むろんそうでは「ない」。
- ただ、そのように定義してしまうとシステム論はモデル論であるということになってしまうので、機能システムの同定は別の課題であると考えておこう。
- このような転換には(宗教に対して世俗的機能が発展するには)「より高次の一般化の方向に向けた価値体系そのものの再構築」が必要であった。⇒人間学の発展
- 変異に対する選択様式との結びつきp42
階層分化:社会内環境と結びつく⇒普遍的な理解可能性をもった選択様式
機能分化:二項図式とプログラム(たとえば合法/不法の二項図式と法律)
⇒機能システムの内部でのみ理解可能
- こうした二項図式と選択プロセスの結びつきというのは直感的には理解できるのだが、「どのように」二項図式が選択に用いられるのかと問いを進めることができるように思われる。
- それは本書の課題というより、個別の分析の中で示されるべきことであるが。
ex.)法的利益というゼマンティクはどのように合法/不法の二項図式と結びつくのか
- 歴史学者としては、二項図式が神学的伝統に根差したものであるということ(完成/未完成、自己愛/他者愛etc)それ自体が興味深い(むろんそれはウェーバー以来の古典的な問題設定だが)。この二項図式の成立について改めて概括すれば以下のようになる。
- 三値の問題から二つの類型の対立へ
霊魂の単一性・総量一定の法則のもとでの、他者利害(他者愛)と自己利害(自己愛)の峻別
⇒「神との関係、他の人間との関係、自己自身との関係という三項図式」p128から神との関係が外され、富や幸福の量が無限に増大することを前提としての、他者愛/自己愛の対立⇒二項図式。
- 二項図式とそれを選択する自己の分離
「自己言及が二項図式から引き出され、二項図式から独立するやいなや、いかにして選択肢は条件づけられるのか、という問いが浮かび上がってくる。
- (その環境開放性において)二項図式は、総量一定の法則から解放され富と幸福を無限に増大させることができるとする人間学に適合的な理論として選択された。
- したがってそれは諸機能との関連というよりも、機能分化への転換過程の副産物として理解すべきか。
※追記6
なお、相互行為理論と社会理論の最終的な切り離しがどの時点に起こったか、という点について、報告者はルーマンよりもやや遅く、1850年代ごろではないかと述べた。アダム・スミスの経済理論、フランス革命などルーマン自身も挙げている事例を重視する観点から反論を受けたが、19世紀の「社会政策」の制度化など区切りとして扱いうる事例は多いように思われる。その他、西ヨーロッパ内部での地域差をどう考えるのかなどについての指摘も受けた。社会経済史レベルでの差異はともかく、ゼマンティクレベルについては共時性を重視するべきではないか、と今のところは考えている。
※追記7
討論で多くの指摘を受けたことに感謝するとともに、この追記のなかで答えられなかった分については後日何らかの形で改めて応答したい(特に「問題設定」に関する部分)。