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2012-02-23 掲載

『社会構造とゼマンティク1』合評会

ルーマン『社会構造とゼマンティク1』 このコーナーには、2012年02月19日にキャンパスイノベーションセンター(東京)にておこなった二クラス・ルーマン『社会構造とゼマンティク1』合評会における配布資料を収録しています。
この頁には猪原 透さんの配布資料を掲載しています。

このコーナーの収録物一覧 評者 小山 裕さん
評者 猪原 透さん
コメンテーター 高橋 徹さん(小山報告へのコメント猪原報告へのコメント

社会構造の転換をいかに記述するか(第2・3章を中心に)
猪原 透(立命館大学大学院文学研究科日本史学専修D1)

 歴史学者がルーマンを読むことの意味
 上流階層のゼマンティク発展の一般的傾向
 初期近代の人間学について
 「上流階層の相互行為」から社会統合機能が失われる、という議論について
 細かい指摘
 終わりに

1.歴史学者がルーマンを読むことの意味

1-1.歴史学と社会学の距離の接近

 90年代以降の日本の歴史学における流行のひとつとして、社会構築主義的なアプローチがあげられるだろう。その理由を挙げるならば、ひとつは社会科学が用いる概念が、単に状況を記述するだけでなく、それ自体が社会を構築する要素であったことへの反省であり、もうひとつは歴史学の「社会史的転回」によるデータの氾濫である。やや単純化された見方ではあるが、戦後歴史学の基本目的が「科学的概念による日常的概念の再記述」であるとみなすことができるならば、現在問題となっているのは、何を語れば対象を語ったことになるのか、という基準の不明瞭化である。「近代化」や「国民国家」といった基本概念は、多様な方面からの実証研究が進められた結果、なぜそれをひとつの概念・現象として記述することができるのかが問われることとなった。
対象を記述する際に用いる概念をそれ自体分析の対象とする社会構築主義的なアプローチは、この問題を(表面的には)解消する。たとえば、貧民の研究とは人々が貧民という概念をどのように用いるかについての研究であり、その限りで貧民の存在をひとつの実在として捉えているわけではない、というように。
とはいえ、エスノメソドロジーにならって「内容的知識/方法的知識」の区別を用いるなら、研究者の関心は前者に集中しており、貧民が「貧民という概念」を「自分のこと」として利用しうることは、自明の前提とされている。

 考えるべきことはふたつある。

  1. 人々がある概念を自分のこととして、かつ説得的に利用できる条件について、
  2. その条件を、当事者の視点に即して、かつ特権化することなく記述すること。

ルーマンにおける、ゼマンティクの進化と対応した「全体社会の進化論」を報告者は、この水準についての議論として受け止めている。

※追記1
討論では歴史学の「目的」とは何か、という質問を受けたが、むろん、本書におけるルーマンの目的と、歴史学の一般的な目的が完全に一致していると言いたいわけではない。歴史学の目的をおおまかに①「個性記述」②「特定時点での社会構造の分析」③「社会変動に関する因果関係の特定」と分類するならば、本書が関係するのは②である。その一方で②を媒介として①・③はゆるやかに繋がってもいる。個性記述はある文化や構造の形象化されたイメージであり、社会変動は厳密な因果関係を想定することで対象が限定されるのを回避するため、相互連関という緩い制約を社会構造分析から借りてくる、というように。このように社会構造は歴史研究において重要な位置を占めているが、探求の対象が単数の構造なのか、(ルーマンのように)複数の構造であるかは、論者によって意見が分かれる。ただ、社会史研究では人口動態構造と経済構造の連関、経済構造と文化構造の連関、といった風に、「諸構造の総体」として全体社会を捉える傾向が強い。(遅塚忠躬『史学概論』第1章を参照のこと)

1-2.「進化論」について

まずは以下の2章で本書の議論(主に第2・3章)の概略を記し、その後個別の論点に移る。

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2.上流階層のゼマンティク発展の一般的傾向

上流社会の相互行為が機能から分離し、独自の発展を遂げていく。

2-1.「外面から内面へ」「資質から業績へ、そして相互性へ」

資質から業績へ、そして相互性へというこの歴史的連鎖は、同時に、行動の予期と帰責の基礎となる、より複雑になっていく因果モデルの連鎖である
p137
因果モデル 帰責対象の例 道徳的評価
資質=現実 高貴な生まれ 事実評価
業績=精通 高貴な生まれという印象を与えるふるまい 結果評価
相互性 原因の選択が可変的、内部自律的 相互行為連関での自律的評価
判断能力と意思決定能力は参加にいっそう依存するようになり、それを社会全体に「理性的に」一般化するのはいっそう困難になる
p139

2-2.人間の未規定性に関する教説

多くの兆候が示すところによれば、人間の基本的描写は、十七世紀には否定的なものに転じ、十八世紀には「もともと未決定である」といった形式上は同じように否定的な理解にしばられるのだが、この理解は肯定的に評価することができる。それは、人間が自己の否定性の否定をとおして形成され、育成されなければならないことを意味している。それだけに、そのために必要な否定の実践が、相互行為の領域において禁じられたりはっきりと拒絶されたりするのは、一見すると驚くべきことかもしれない
p124
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3.初期近代の人間学について

3-1.帰属問題

3-2.帰属問題の現世化

ex.)「第1の永遠の法」と「第2の永遠の法」(リチャード・フッカー)

第二の法に違反しても、第一の法の内にある、という形で定式化される。
自然:一つの形態が二つの形態に置き換えられる、という点では同じだが、分岐点が現生に移動する(原罪のドグマを使わない)。⇒契機としての「自己愛」の問題化

ex.)「集合的な自己愛」と「個人的な自己愛」(ジャック・アバティ)
アバディ
集合的な自己愛は、正当で自然なものとしての愛である。個人的な自己愛は、悪徳で堕落したものとしての同じ(原文のまま!)愛である
p168

3-3.不安の人間学

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4.「上流階層の相互行為」から社会統合機能が失われる、という議論について

4-1.なぜ上流階層の相互行為に注目するのか

※追記2
討論で名前の挙がった安丸良夫の『日本の近代化と民衆思想』 『出口なお』などは、ルーマンと比較的よく似たモチーフを別の視点たどった著作として、つまり階層秩序の「下からの」崩壊を扱った著作として読める。農村の荒廃をきっかけとして生み出された「通俗道徳」は一般化された人間学としての役割を果たし、また、通俗道徳を守っているにも関わらず貧困から脱出できないという事態は、階層秩序への批判意識を強めた。
 とはいえ『社会構造とゼマンティク』の議論を、ヨーロッパ以外の地域に援用する場合の困難についても当日は議論となった。制度や概念の輸入・翻訳をどのように扱うのか、といった部分で、折衷的なアプローチが求められることになるだろう。

4-2.上流階層の相互行為が(階層再編に向かわず)社会統合機能を失うに至る「構造的理由」とは何か?

※追記3
ここでは因果関係の特定ではなく相互連関という弱い制限のもとで作業を行う、というルーマンの方針について言及したのだが、「循環論法」という言い方は因果関係を連想させる不適切なものであった。

4-3.思想史(あるいは理論史)的素材の扱い方

※追記4
討論ではこのように「問題設定」という概念を軸に解釈することについて、これ以外のルーマンの著作と比較しながら検討する必要とともに、「どこから・何から見て」問題なのか、ということにも答えなければならない、という指摘を受けた。問題設定の生成、といった場合、この時点では存在していない機能システムを前提にしてはいないか、と。すぐには答えられない。なお、最後の問いは悪い問いの立て方をしてしまった。二つ目については、この場合、旧ヨーロッパ社会の知的伝統に答えを求めるべきなのだろう。
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5.機能的に分化している、とはどういうことか

5-1.連続性と不連続性

機能分化した社会は、それ以前にすでに宗教、政治、経済、教育であったものの構造を転換させる
p155-6

5-2.二項図式について

※追記6
なお、相互行為理論と社会理論の最終的な切り離しがどの時点に起こったか、という点について、報告者はルーマンよりもやや遅く、1850年代ごろではないかと述べた。アダム・スミスの経済理論、フランス革命などルーマン自身も挙げている事例を重視する観点から反論を受けたが、19世紀の「社会政策」の制度化など区切りとして扱いうる事例は多いように思われる。その他、西ヨーロッパ内部での地域差をどう考えるのかなどについての指摘も受けた。社会経済史レベルでの差異はともかく、ゼマンティクレベルについては共時性を重視するべきではないか、と今のところは考えている。

※追記7
討論で多くの指摘を受けたことに感謝するとともに、この追記のなかで答えられなかった分については後日何らかの形で改めて応答したい(特に「問題設定」に関する部分)。
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猪原報告に関連するコメント
高橋 徹(札幌学院大)

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