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2001年5月~8月:Selection を巡って1@デリダML

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このやりとりは、デリダ・メーリングリストでおこなわれたものです。転載を許可された原さんに、この場所を借りてお礼を。
To: derrida@egroups.co.jp
Date:Sun, 20 May 2001 13:08:13 +0900
From: 原 宏之
Subject:象徴界・選択

【略】
余談ですが、先日ドグマ人類学を研究している方と面白い話をしました。
 『知恵の樹』にでてくる鏡とゴリラの話に感動して、その話をふったのでした。ドグマ人類学は、ラカン理論と抵抗をまじえながらも、密接に関連するところがあるんです。犬やネコ、猿などに鏡を見せても、威嚇したり、「動物的」な反応をひとしきり見せた後で、鏡に無関心になるそうです。ある実験で、ゴリラの額に色のマークをつけたそうです。ゴリラのすごいところは、なんと、鏡を見て、自分の額をこすったそうなんですね。
 この話をしたときに、「チンパンジーやら猿の話やら、ラカン理論を崩そうといろいろ話するんですよね、みんな」といっていたその方も、マークの話をすると、「え、ちょっとまてよ、それ象徴界か?」と、すっきりしない様子でした。

 わたしが思うに、この話は、精神分析だけに関わることではないんです。ロゴスをもつものとしての動物といった人間の定義のロゴス、理性=言語にあまりにもわたしたちは振り回されている、と。だから、ジェスチャーなどのような動物言語の例をもちだして変な反論がでてくる。そうじゃなくて、理性=言語というカテゴリーを崩さなきゃならない。人間の言語は、二重分節といった事実よりも、そこから開かれる、言語について無限に言語に語りうるといった、特定の様態に特質があるんだと思います。精神分析の、無意識の提出は、説明モデルとしては、真実かもしれないけれど、その論証の過程の真実性は確認できません。ある意味で、理性-意識の主体モデルのマイナーチェンジにとどまっているように思われます。

 人間を、さまざまな有機的システムと心的システムの複合から考えるのは面白いと思います。意識システムの話もなんとなく理解できたように思えます。ただ、社会システム論で気になるのは、「コミュニケーション」を、情報や伝達の<選択>と考えているところです。選択に、主観的意識の残響が感じられるし、オートポイエーシス的な発想ではないですよね。むしろ、情報を選択するのは情報だといって欲しい気がします。(これはルーマンmlの話題ですね)
 最近、そんなことを考えています。

To: derrida@egroups.co.jp
From: 酒井泰斗
Date: Sun, 20 May 2001 13:18:35 +0900
Subject: [derrida] 「選択」

話をきちんと理解できてる気がしてませんが、一言コメント失礼。

原さん wrote:

社会システム論で気になるのは、「コミュニケーション」を、情報や伝達の<選択>と考えているところです。選択に、主観的意識の残響が感じられるし、オートポイエーシス的な発想ではないですよね。むしろ、情報を選択するのは情報だといって欲しい気がします。

"selection" には、「選択」だけでなく、「淘汰」という訳語もありますよね。
それでも、「主観的意識の残響が感じられる」?

To: <derrida@egroups.co.jp>
Date: Sun, 20 May 2001 13:38:16 +0900
From: 原 宏之
Subject: Re: [derrida] 「選択」

酒井さんコメントありがとうございます。

"selection" には、「選択」だけでなく、「淘汰」という訳語もありますよ。
それでも、「主観的意識の残響が感じられる」?

この点ですが、ヴァレラたちは、自然淘汰のselectionの語が誤解を与えると、この語の決定に批判的ですよね。慣習化したのでやむをえず用いると。
 まず、英語では selection は「選択でもあり淘汰でもありうる」のではなく、「selection は selection」ですよね。その決定が、自然環境であるのか、主体であるのかはともかくとしますが。
 主観的意識の残響を撤回するとするなら、わたしは「主体」をまだそこに認めます。レセプターと運動器官の関係のところででてくる情報の話や、コミュニケーションに関する考え方で、生物学的なオートポイエーシスと、社会学的な拡張にずれがないですかという素朴な疑問です。

 念のためいうと、わたしはルーマンを頭ごなしに批判しているわけではなく(ほとんど読んでいないのですから)、いろいろとアイディアを与えてくれそうだと期待しているところです。これからです。少なくとも、メディオロジーの土台理論やインプット/アウトプットのような古いサイバネティクスのモデルの乗り越えには、とても重要なひとだと思います。

To: <derrida@egroups.co.jp>
Date: Sun, 20 May 2001 20:47:36 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [derrida] re:「選択」
酒井です。
FreeMLの「e現象学」というMLから、突然警告もなしに退会処分を受けてしまいました(>_<)ヽ
退会の理由は「当MLに2ちゃんねらーを参加させておくと他のメンバーの不利益になるから」だそうです(藁藁  
あ、ちなみに私は「2ちゃんねる」に書き込みしたことはありません(^_^)

さてさて。
酒井:

"selection" には、「選択」だけでなく、「淘汰」という訳語もありますよ。
それでも、「主観的意識の残響が感じられる」?

原さん:

まず、英語ではselectionは「選択でもあり淘汰でもありうる」のではなく、「selectionはselection」ですよね。その決定が、自然環境であるのか、主体であるのかはともかくとしますが。
主観的意識の残響を撤回するとするなら、わたしは「主体」をまだそこに認めます。
この最後の一文の意味が、ちと掴みかねますが、
「撤回する」のは、誰ですか? 「そこ」ってどこ?
それを置くとしても、次の2点が気になりました。

[1]「selection」を、──ルーマンに倣って──  
〈可能的〉なものが-〈現実的〉なもの-に-成るbecome、
──そのような出来事
である、と定式化してみましょう*。この定式化は一般的・抽象的すぎてほとんど何もいってませんが、それでも
1)さしあたり〈選択-主体〉との関係を脇に置いた形で可能になっており、
2)ここに付帯事項を加えていって、日本語でいう「選択」や「淘汰」という含意を、それぞれ別に導き出すことができる**
というところに、よさがあります。

──原さんのいう「selection is selection」というトートロジーは、以上のように“展開”可能なわけなので、「選択」という言葉を術語的に用いることが、直裁に「主観的意識の残響」をもつことにはならないように思うのですが、どうでしょうか。

* このテの議論に興味のある方は、たとえば『宗教の機能』(1977)などを参照して下さい。
** たとえばルーマンの場合だと、「selection」と「帰属attribution」とを関係づけることで、そうした議論が展開されていくことになります[この点については、たとえば『法社会学』(1972)などを参照のこと]。 そしてもっともベーシックな水準では、selectionとattributionは“等根源的***”だ、ということになるでしょう。
*** selection という出来事が“出来している”というコトが、システムが“ある”というコト“である”、云々、という具合[この点については、たとえば『ハーバーマス=ルーマン論争』(1971)などを参照のこと]。

[2]そうしたこととは別に、次のような疑問がわきます。
そもそも、議論のうちに「主観的意識の残響」が聴きとられうること自体は、なにかマズイことなのでしょうか? その場合、そのような議論は、どういうところにモンダイがあるのでしょうか?



念のためいうと、わたしはルーマンを頭ごなしに批判しているわけではなく

あ、ご心配なく。
私もそうは受け取っていません(^_^)。

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