socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
掲載開始:030202
最終更新:030202

[0507] 検討!

As lately as the last decades of the eighteenth century, European society became aware that the old order was gone. This has nothing to do with the so-called Industrial Revolution or the French Revolution, which became important only because society was prepared to see and to interpret a new order.
遅くとも18世紀の最後の数十年までには、 ヨーロッパ社会は古い秩序が消え去ったことに気づくようになっていた。 これはいわゆる産業革命やフランス革命とはまったく関係ない。 これらが重要になったのは、[すでに] 社会が新しい秩序を経験し*・解釈する準備ができていたからにすぎないのである。
From: 角田幹夫
Subject:
*これは検討の余地、かなりあり、です。
他の候補として、諒解する、認識する。いちばん無難なのは「見る」でしょうか。
Tue, 28 Jan 2003 16:00:14 +0900
From: 小田川大典
Subject: [luhmann:04502] Re: [* ∀ *]0507
それは、社会が新しい秩序を理解したり解釈したりすることができるようになったからにほかならない。
I see. のSEE だと思いますが。
Date: Wed, 29 Jan 2003 03:20:42 +0900
From: 角田幹夫
Subject: [luhmann:04505] Re: [* ∀ *]0507
確かに、小田川さんのいうように、このseeは諒解する、わかる、ですよね。
ただ、何故角田が「経験する」という訳語を採用したのか、弁解させてください。
 ここでルーマンがいわんとしていることは、古い秩序の消失の自覚は、 産業革命だの仏蘭西革命に先行していたということでしょう。つまり、 なんたら革命が起こったから古い秩序の消失に気づいたのではない。逆に、 古い秩序の消失に気づき、そのことによって新しい秩序をsee and interprete する準備というか覚悟ができたが故に、なんたら革命が重要なこととして 意味づけられた。或いは、そうであるが故に重要なものとして経験された。
 それで、諒解するか経験するかで迷ったのですが、もう一つ 「経験する」を選んだ理由としては、諒解すると解釈するとでは 意味が近すぎて、ちょっとリダンダントになるんじゃないか、ということです。
Date: Fri, 31 Jan 2003 23:27:04 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04521] 4502[* ∀ *]0507検討!
ちなみに、直前の文では be aware が使われてますね。
http://thought.ne.jp/luhmann/asl/doso/05.php#a07
As lately as the last decades of the eighteenth century, European society became aware that the old order was gone.
遅くとも18世紀の最後の数十年までには、 ヨーロッパ社会は古い秩序が消え去ったことに気づくようになっていた。
角田さんの繰り返しになるかもしれないですが。
この「気づくようになっていた」事態の後で、しかも登場しつつある「新しい秩序」を「見」ながら、フランス革命や産業革命は、「喪失のシンボル」として扱われたのだ、
逆にいえば、何らかのシンボルが「必要とされたのだ」ともいえるかな
──といったことがいわれようとしていることはわかります。
で、 see を単独で取り出してみると、あり得る訳は、
 1)「新秩序」を経験する準備ができていた
 2)「新秩序」を認識する準備が出来ていた
 3)「新秩序」を理解する準備ができていた
 4)「新秩序」をわかる準備ができていた
 5)「新秩序」をみる準備が出来ていた
 6)「新秩序」に気づく準備ができていた
といったところでしょうか。
「秩序」という単語との相性でいえば、ニホンゴ的にありそげなのは、
でかつ、「解釈」とかちあわなさそうなのは
2とか6ってとこですか。 さらにsee という広い意味を持つ語にみあった ひらたいニホンゴでという制約をつけると、残るは6かなー。
 と、おもったけど、これだと aware と被るのか・・・。

During the nineteenth century, a series of new distinctions emerged, such as state and society, individual and collectivity, community and society, but the"and" of these dualities was left uninterpreted; that is, the unity of the distinction (= the paradox) remained invisible.
19世紀を通じて、一連の新しい区別が出現した。 国家と社会、個人と集合体、共同体と社会といったものであるが、 これらの二元性の「と(and)」は解釈されざるまま残された。 つまり、区別の統一(=パラドックス)は不可視のままだったのである。
Date: Fri, 31 Jan 2003 11:31:59 +0900
From: 角田幹夫
Subject: [luhmann:04515] Re: [* ∀ *]0507
初歩的な質問かもしれませんが、ルーマンにおける「共同体と社会」の区別ですけど、マッキーヴァー流のcommunity/associationの区別と同様でいいのでしょうか。
Date: Fri, 31 Jan 2003 12:07:38 +0900
From: 馬場靖雄
Subject: [luhmann:04518] Re: [* ∀ *]0507
community and society は原文では Gemeinschaft und Gesellschaft ですね。 当然テンニエス。
訳語も「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」のほうがいいでしょう。
Date: Fri, 31 Jan 2003 23:39:06 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04522] 4515[* ∀ *]0507検討!(共同体)
コミュニケーション様態を記述するために、ルーマンが術語として用意・使用しているのは、 society・organization・interaction の3つ(そして3つだけ*)なので、それ以外のカテゴリーは、扱いとしてはみんな
   「~と人の謂う」という
ことになるんじゃないか、と想像しているわけですが、そういう理解でよろしい?>識者の方
ここでの議論でも、たとえば〈社会/共同体〉とか、〈国家/社会〉とかいった区別は──それが「どんなものであるか」はともかくとして(!)──「実際に-当時の人が-使ってた区別」として「言及」されている(だけな)のだと思ったりもする私です。
* ただし、一昨年くらいの小松丈晃さんの日射発表で、晩年に登場した「4つ目の術語」ってのが取り扱われてましたけど。
Date: Sat, 1 Feb 2003 16:26:25 +0900
From : 小松丈晃
Subject: [luhmann:04528] Re: 4515[* ∀ *]0507検討!(共同体)
ここでの議論でも、たとえば〈社会/共同体〉とか、〈国家/社会〉とかいった区別は‥‥「実際に-当時の人が-使ってた区別」として「言及」されている
私もそう思います。
「区別の統一性が取り扱われていない」という一文がその後に続くときには、その「区別」は、(当時の社会でであれルーマン以外の社会学者であれ)従来使われている区別のことを指すものと考えてよさげです。 価値合理性と目的合理性の区別にしても、システムと生活世界の区別にしても、ルーマンはつねにこの「区別」を云々したあとに、必ず「区別の統一性がなおざりになってるやんけ」と、いちゃもんをつけます。
もちろん、これらの「区別」に対するルーマンのスタンスは、きちんと おさえとく必要はあるでしょうが、これは言うほど簡単ではなさそう。

ルーマンが用意・使用している、コミュニケーション様態を記述するための術語は、society、organization、interaction の3つ(そして三つだけ*)
『社会の社会』では、抗議運動が第4のシステム類型として登場します。
抗議運動は、相互作用(たとえばデモや集会)だけでは単発的な“集合的エピソード”に留まってしまうので、コアとなる運動組織(SMO)も必要です。しかし 逆に組織だけになってしまうと、それは運動の終焉を意味するという把握も ずいぶん前からあるように(*)、運動とSMOとはイコールじゃありません。
(*)J.Raschke,1986,"Zum Begriff der sozialen Bewegung",in:Roth,Rucht,hrsg., Neue soziale Bewegungen in der Bundesrepublik Deutschland,Campus,19-29.
これらについては、私も非常に不十分ながら触れてみたことがありますが、 ルーマンの「第4類型」としての運動という把握には、がっちりとした成員資格を メルクマールとする組織としても、また相互作用としても捉えるわけにはいかん、 という、このあたりの事情もおそらくは絡んでいると思います。
 ちなみに、『諸社会システム』(1984)では、ある運動やコンフリクトがなぜ社会へと 広がり“盛り上がって”いくのかを、相互作用と社会との「差異」として捉えていました (訳だと下巻714ー6頁)。

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