socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
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訳稿更新:030121

ニクラス・ルーマン「脱構築という二次の観察」04

Niklas Luhmann "Deconstruction as Second-Order Observing".

[0401]
Conceived as an operationally closed system, modern society is world society.31 Its function systems could never agree on regional, national, or cultural boundaries. The system of science, the economic system, the system of mass media operate and observe clearly on a worldwide level. But the political system nowadays, too, is a world system, segmented into"states" to achieve a better fit between political power and changing conditions of public consensus. States, in their phase of dissolution into ethnic groups or economic congregations, remain the prime address of political communication -- national and above all international. But this does not mean that the society ends and begins at political boundaries -- say, between the United States and Mexico, or between Germany and Austria. Tourists enjoy (to some extent) legal protection and the staged authenticity of customs and traditions all over the world. We can intermarry, Whatever our national origins. Conversion from one religion to another is possible, if religions care at all for an exclusive identity and membership. But in spite of all this, the global system or modern society seems not to be able to produce one and only one self-description.
31. See Luhmann 1990a, 175-90.
作動的に閉じたシステムだと考えるなら、近現代社会*は世界社会である。
31. Luhmann 1990[→邦訳], 175-90を見よ。
角田:
* Modernを近代とするか現代とするかは考えものです。
酒井:
近現代でごまかしときましょう
その機能*諸システムは 地域的、民族=国民的、あるいは文化的境界とは決して一致し得ない。
角田:
*functionという字を見たとき、目を疑ってしまったのですが、functionalではないのですね。よって、「的」は遠慮させてもらいました。
科学システム、経済システム、マスメディアのシステムは 明らかに世界的なレヴェルで作動と観察を行っている。 しかしいまでは、政治システムもまた政治権力と変動してやまない公的合意の条件とのよりよき適合を達成するために「諸国家」へと環節化された世界大のシステムである。 諸国家は、それがエスニックな諸集団*や経済的な諸集団**へと分解されている局面においても、 [依然として]──民族=国民的、そしてとりわけ国際的[間国民的]な── 政治的コミュニケーションの主要な宛先であり続けている。
角田:
*Eg.旧ユーゴスラヴィア?
**マルクス主義的な意味での階級対立=階級闘争でしょうか。
しかし、こうだからといって、社会が ──たとえば合衆国とメヒコとの間やドイツとオーストリアとの間といった── 政治的な境界において終わり、そして[国境を超えると]また始まる というわけではない。 旅行者は世界中で法的保護を(ある程度は)享受し、習慣や伝統=伝承の演出された真正性を娯しんでいる=享受している。 我々は、その民族=国民的出自が何であれ、相互に結婚することができる[するかも知れない]。 諸宗教が排他的なアイデンティティとメンバーシップ*をともかくも好むとしても、 ある宗教から他の宗教への改宗は可能である。
角田:
*ある人が創価学会の信者であると同時に浄土真宗の門徒であることはできない、ということ。しかし、日本においては、創価学会は寧ろ例外的で、メンバーシップの排他性が緩く、だからこそ、葬式と墓は既成仏教、日常的な信心は新宗教といった分業が成り立っているわけです。メンバーシップの緩さの極めつけは神道で、それはパラドクシカルにきついともいえるのでしょうが、その地域の住民は他の宗教集団への所属にかかわらず、みんな氏子ということになっちゃいます。
酒井:
日本の各教団の公式構成員数の総数は、日本の人口を上回るそうですからね(^_^;)
しかし、こうしたことすべてにもかかわらず、グローバル・システムすなわち近代社会は、唯一無二の自己記述が産出不可能なようである。(021110)
[0402]
This leads to the question of how the world society can observe and describe itself and its environmental conditions given the enormous variety of living conditions, of cultural traditions, of political regimes, of religious orientations, of the impact (or lack of impact) of law as a constraint in daily life, of class structures, of career structures, of corruption, and of the degree of exclusion of large parts of the population from any participation in function systems in a very unequal distribution over the regions of the world?
ここから導かれる疑問は、生活条件、文化的伝統、政治体制、宗教的指向性、日常生活における拘束としての法のインパクト(あるいはインパクトの欠如)、階級構造、キャリアの構造*、腐敗、そして世界の諸地域に[諸資源が]きわめて不平等に分配されている中で住民の多くがいかなる機能システムへの参加からも排除されていることの度合いの途方もない多様性を鑑みると、 世界社会が自己とその環境的条件を観察し、記述することは如何にして可能なのかということである。(021111)
角田:
* これは共時的な職業構造=カースト?というよりは、通時的なもの、いわゆるライフ・コースのようなものと理解しましたが、如何でしょうか。
[0403]
The answer is surprisingly simple. This observing and describing is done by the mass media. What we know about the world we know from books, from newspapers from movies, from television -- be it German reunification or the living conditions of the pandas, the size of the universe or the increase of violence in Rio de Janeiro or in Los Angeles. To a large extent, mass media create the illusion that we are first-order observers, whereas in fact this is already second-order observing. All three main sectors of mass media operations -- that is, news and reports, advertisements, and entertainment -- cooperate in producing a rather coherent image of the world we are living in. We know that this is preselected information, but we do not and cannot in everyday life reflect upon and control the selectivity of this selection. To see the contingency of the result, we need a more reflective second-order observing to see not what but how mass media select.
答えは驚くほど単純だ。 こうした[世界社会の]観察と記述はマス・メディアによって行われている。 世界について我々が知っていることは ──ドイツ再統一にせよ、パンダの生息条件にせよ、宇宙の大きさにせよ、 あるいはリオ・デ・ジャネイロとロスアンジェルスにおける暴力の増加にせよ── 本から、新聞から、映画から、TVから知るのである。 我々は既に二次の観察者であるにもかかわらず、 マス・メディアは我々が一次の観察者であるという幻想を かなりの程度つくりだしている。
角田:
これは正論なのでしょうけど、メディア批判としてはかなりベタですよね。
酒井:
批判ではないのだと思います。
マス・メディアの活動operations*の主要なセクター、 すなわちニュースと報道、広告及びエンターテイメントが協働cooperateして、 我々が住む世界の多少なりとも首尾一貫したイメージが産出されている。
角田: *ここでは「活動」と訳してもいいような気がするのですが。
別の案だと、
マス・メディアの活動の主要なセクター、
すなわちニュースと報道、広告及びエンターテイメントの作動が重なり合って、
我々が住む世界の多少なりとも首尾一貫したイメージが産出されているのだ。
目的意識的に(or陰謀理論的に)協力するというニュアンスを排したいと思ったのですが。
辞書に載っていた例文;
> Various circumstances cooperated to make a great success.
> さまざまな事情が重なり合ったおかげで彼は大成できた。
我々はこれ[世界のイメージ]が予め選択された情報であることは 知っているが、日常生活においては、こうした選択の選択性について 反省したり、それをコントロールしはしないし、そんなことは不可能である。 帰結*の偶有性[状況への依存性]を理解する**ためには、 マス・メディアが何を 選択するのかではなく、如何に 選択するのかを理解するための より反省的な二次の観察が必要なのだ。(021111)
角田:
*「帰結」とは何なのでしょうか。選択の結果としての世界イメージ? それとも、それが日常において自明性に沈んでしまうこと?
**seeは「理解する」としましたが、observingとの関連からすると、「見る」も捨てがたいです。
[0404]
This selective presentation is not, as most people would be inclined to think, a distortion of reality. It is a construction of reality. For from the point of view of a postontological theory of observing systems, there is no distinct reality out there (who, then, would make these distinctions?), but instead all distinctions (indications, identities, classifications, and so forth) are made by an observer. And there is, at least in our society, no privileged observer -- be it the highest class, the citizen (distinguished from countrymen), the clergy, the literati. The last semantic construction claiming to be in this position has been the "transcendental subject.' But there is no transcendental subject. We have to rely on the system of mass media that construct our reality -- transforming the artificial into the natural, the contingencies of their constructions into a mix of necessities, impossibilities, and freedom (or rather freedoms).
こうした[世界の]選択的呈示は ──多くの人々が考えがちである程には── 現実の歪曲であるわけではない。 It is a construction of reality. それは現実の構築=構成 である。 というのは、 観察するシステム[システムを観察すること]についてのポスト存在論的視点からすると、 あそこに明瞭な=識別可能な現実が[観察以前に]あるぞ というわけではなく (そうなら、誰がその区別をするのだろう)、 そうではなくて、あらゆる区別(指示、同一性、分類等々)は 観察者によってなされるからだ。 そして、少なくとも我々の社会においては、 最上流階級であれ、(田夫野人とは区別される)市民であれ、 聖職者であれ、知識階級であれ、いかなる特権的な観察者もいないのである。 この位置にあると主張した最新=最後のゼマンティーク的構築物*は「超越論的主観=主体」であった。
角田:
* constructionでも「構築物」という意味はあるけど、construction/constructの区別くらいしてよ。
しかし、超越論的主観=主体などないのだ。 我々は、 人為的なものを自然的なものへ、その構築物の諸々の偶有性を 諸々の必然性と諸々の不可能性と自由(むしろ諸々の自由だろう)の 混合物へと変換し、我々の現実を構成=構築するマス・メディアのシステムに 頼らなければならない。(021113)
角田:
ここのミソは複数形ということでしょうか。
何故か、ここの箇所ではゴフマンの_Frame Analysis_は無視されていますね。
[0405]
If there is no choice in accepting these observations, because there is no equally powerful alternative available, we have at least the possibility of deconstructing the presentations of the mass media, their presentations of the present. At this point, it again becomes important to replace deconstruction with second-order observing. We can very well observe their observing. There is already a lot of empirical research with well-known results. Mass media prefer discontinuity over continuity because they have to produce information. They prefer conflict over peace, dissensus over consensus, drama over normal and dull life. They prefer stories of local interest.The mass media like quantities that need no further explanation because they are distinctions themselves. They prefer bad news over good news, but good advertisement over bad advertisement. In their entertainment section, they draw clear moral distinctions, although the good guy sometimes has to cut corners to bring the story to a good end. They prefer morality and action. This means that we may overestimate the importance of decisions and of the influence of decisions (and individuals) on decisions, and that we will translate the uncertainty of the future into a risk of decision making. We will insist on responsibility and will evaluate decision makers accordingly, knowing very well that the future remains unknown and that values and criteria are and remain an object of controversy. Decisions donot come about without situational influences; quantities do not translate easily into developments; and discontinuities disconnect what we know from the past from what we may expect from the future.
[マス・メディアと]同じくらい強力なオルタナティヴが見当たらないために、 こうした[マス・メディアによる]観察を受け容れるしかない*としても、 少なくともマス・メディアによる呈示=上演=現前化、[つまり] マスメディアによる現在の呈示presentationを脱構築する可能性はあるのだ。
角田
*直訳すると、「受け容れることにおいていかなる選択もない」ということになりますでしょうか。
この点において、 脱構築を二次の観察に置き換えることが再び重要になってくる。 我々はマスメディアによる観察をとてもよく観察することができる。 [これについては]既に沢山の経験的研究*があり、その諸結果はよく知られている。
角田:
* researchはいくら多くても単数扱いなのですね。ただ、辞書によれば、researchはresearchesと複数形にして、しかも単数扱いをする、と。 とすれば、このルーマンの書き方は???だったのですが、果たして辞書と私が無知なのか、それとも所詮は独逸人の英語なのか。
マス・メディアは連続性よりも不連続性を好むが、それは マス・メディアが情報を生産しなければならないからである。 [また]マス・メディアは平和よりも紛争を、合意よりも不合意を、ふつうで単調な生活よりもドラマを好む。 [また]ローカルな関心事の記事=物語を好むのである。 マス・メディアは、それ自体が区別であるがゆえにさらなる説明を必要としない量を好む。[また]よいニュースより悪いニュースを好む。しかし、悪い広告よりはよい広告を好むのだが。そのエンターテイメント部門においては、時には善人は近道をして物語をよき結末へと運ばなければならないのだが、マス・メディアは明確な道徳的な区別をする。[また]お説教とアクションが好まれる。これは、我々が決定=決断の重要性、決定に対する決定(及び個人)の影響力の重要性を過剰に評価しているということ、そして我々が未来の不確定性を意思決定のリスクに翻訳するだろうということなのだ。未来は常に変わらず未知のものであること、価値と規準は論争の対象であり常にそうあり続けるということを十分承知しつつ、我々は責任性を強調し、それに応じて意思決定者を評価するだろう。決定は状況的な影響なしには生起しない。[つまり]量は容易くは発展へと翻訳されない。そして、不連続性は我々が過去から知っていることを我々が未来から期待=予期するだろうことから切断するのだ。(021120/021125)
[0406]
This overall tendency to emphasize discontinuity, surprise, conflict, agency, decision, and moral evaluation seems not to lead to a unified world-view, replacing the old cosmology of substances and essences (hypokeimenon, subiectum, ousia, essentia ) with a new one. What has become visible after some centuries of impact of the printing press and after a hundred and more years of mass media is a much more complicated, some say hypercomplex, description of complexity-hypercomplex in the sense that within the complex system of society there are many competing descriptions of this complexity. The unity of the complexity becomes unobservable. Intellectuals occupy themselves and others with describing description, philosophers become experts on philosophical texts -- and literary criticism takes over, nicknaming "theory" something that we suppose has been done elsewhere.32
32. See Culler 1982, 8; and Culler 1988, 15.
こうした 不連続性、驚き、紛争、能動者*、決定、道徳的評価を強調する全般的傾向は、 実体と本質(hypokeimenon、subiectum、ousia、essentia)**という 古いコスモロジーを新しいコスモロジーに置き換えて、 統一された世界観をもたらすことはない。
角田:
*「工作員」ではないでしょう。谷川雁の用語で「工作者」というのがありましたが。
** 括弧は"substances and essences"にかかるわけですよね。
印刷機[の発明]という衝撃から数世紀の後に、 そしてマス・メディア[の出現]から百年以上の後に*可視的になったのは、 より一層入り組んだ、超複合的hypercomplex)という人もいる、複合性の記述である。 超複合的というのは、社会の=という複合的なシステム内部では、この複合性について沢山の競合する記述があるという意味においてである。
角田:
* ルーマンにとって、「マス・メディア」以前と以後を区分するメルクマールは何なんでしょうか。蓮實元総長によれば、輪転機の出現が重要なようですが。
[かくして]複合性の統一は観察不能となる。 知識人は記述を記述することに専心し、他の人々を専心させ*、 哲学者は哲学的テクストの専門家となる──**そして文藝批評は、他の場所で為されたと我々が想定する何かを「理論」と渾名しつつ、[哲学者を]引き継ぐのだ{/哲学者の位置を横領してしまう}32。(021202)
32. See Culler 1982, 8; and Culler 1988, 15.
角田:
* ここは自信ないです。というか、角田の英文法の知識の限りでは、ルーマンのoccupyという動詞の使い方は完全に掟破りで、occupy withというのは受動態若しくは再帰用法でしか使えない筈なのだ。英米人に(カナダ人でも構わないわけですが、独逸人では断固としてなく)確認してみる必要もあるかと。
** ここでリーダーを引く意味も分からないのですが、take overの目的語として、「哲学者」をでっち上げたのは、リーダーの存在を考慮したということもあります。
酒井:
「他の場所で為されたと我々が想定する何か
 something that we suppose has been done elsewhere」
って、いったいなんのことすかね(^_^;;;;)
[0407]
In comparison with what has become by now our old European tradition, this state of affairs appears very unsatisfactory. But do we have to compare? It could well be that our society is the outcome of a structural and semantical catastrophe in the sense meant by Ren'e Thom -- that is, the result of a fundamental change in the form of stability that gives meaning to states and events. If this is so, the deconstruction of our metaphysical tradition is indeed something that we can do now. But if so, it would be worthwhile to choose the instruments of deconstruction with sufficient care so that by using them we could gain some information about our postmetaphysical, postontological, postconventional, postmodern -- that is, postcatastrophical condition.
既に我々ヨーロッパの伝統となってしまったものと比較すると、こうした事情はとても不満足なもののようにみえる。
角田:
*一人称所有格+oldは、愛おしさや慣れ親しみを表すもので、「お馴染みのヨーロッパの伝統」とすると、一人称性に欠けますし、「ヨーロッパのおらが伝統」とすると、品格に欠ける。
にもかかわらず、比較しなければいけないのだろうか。 我々の社会が、構造的・ゼマンティク的な、ルネ・トムの謂う意味での カタストロフの帰結──つまり状態と出来事に意味を与える安定性の 形式における根本的な変化の結果──であるというのはもっともなことである。 もしそうであるなら、我々の形而上学的伝統の脱構築は、 まさに我々が今なしうることなのである。 しかしそうであるなら、 十分な注意を払って脱構築の諸用具を選択することは価値のあることだろう。 そうすれば、そうした用具を使って、我々はポスト形而上学的、ポスト存在論的、ポスト伝統的、ポスト近代的──つまりポストカタストロフ的な条件=状態についての何らかの情報を得ることができるからである。(030121)
角田:
*一応、「的」で揃えてみました。「ポスト規約主義」か「ポスト伝統(因襲)」かは、検討の余地、有りです。ただ、「主義的」の場合だと、postconventionalistになるんじゃないだろうかとは思います。
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