socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
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訳稿更新:021107

ニクラス・ルーマン「脱構築という二次の観察」03

Niklas Luhmann "Deconstruction as Second-Order Observing".

[0301]
Who, then, is the observer, the constructing and therefore deconstructible observer? Nobody, Of course, might be the answer in Derrida's style. Or everybody. The problem lies in the copula "is" used to formulate the question. But we can easily avoid its ontological implication (that there is an observer) by using the second-level observation. The question then becomes: Who is to be observed and by Whom and for what reasons? This means: an observer has to declare (or even justify) his preferences for choosing and indicating a specific observer to be observed -- that one and not another one. At the level of transjunctional operations any observer can accept or reject this choice. He can share the observer's preferences in focusing on this one (and not another) observer, or he can refuse to follow and, using third-level observation, describe the second-level observer as a specific system with specific preferences for selecting specific observers to be observed -- say, as a family therapist with an interest in the intricacies of reciprocal observations of observations in families that so easily take a pathological path; or as a philosopher with an interest in deconstructing the distinguishing forms of distinction used in ontological metaphysics.
では、観察者とは誰のことなのか。構築し、そうであるが故に脱構築可能な観察者とは?  “もちろん誰でもない”──デリダの流儀に従えば、それが答えなのかも知れない。そうでなければ、“誰でもがだ”、と。  問題は[誰のことかWho is?という]問いを述べる=定式化するために使用される繋辞"is"にあるのだ。 しかし、我々は二次のレヴェルの観察を使用することによって、その[繋辞"is"の]存在論的含意(観察者がいるということ)をたやすく回避することができる。 そうすると[who is?という]問いは、“観察されているのは誰か?、誰によって・どんな理由で[観察されているのか]?”というものになる。 つまりこうだ: 観察者は観察されるべき特定の観察者──他の観察者ではなく、その観察者を──選択し指示する という自らの選好を、宣言(あるいは正当化さえ)しなければならない。 超言的操作のレヴェルにおいては、いかなる観察者もこの選択を受容もしくは拒絶することができる。 彼[=任意の観察者]は(他ではなくて)この観察者に焦点を合わせることにおいて[一次の]観察者の選好を共有する*ことができる。 あるいは、──例えば、いとも たやすく病理学的な径をとる、家族における観察という 相互的なreciprocal 観察の絡み合いに関心を持つ家族療法家のように、あるいは 存在論的形而上学で使用される卓越した=目立ったdistinguishing 形式を脱構築することに関心を抱く哲学者のように── [その選好を]フォローすることを拒否して、三次のレヴェルの観察を使用しながら、二次のレヴェルの観察者を、観察されるべき特定の観察者を選択する特定の選好を有した特定のシステムとして記述することができる。(021030)
角田:
say以下は、三次の観察の例示としてとったのですが。
酒井:
*「哲学的」に考えれば、ここにでてくる「共有share」という言葉は、非常に素性のアヤしいものだ、ということになると思うけど。
むしろここでは、“だってそうじゃん” “実際そうしてるじゃん”(たとえば家族療法家が、あるいは哲学者が、あるいは他の誰かがetc.)‥‥ という、例示的証示として受け取るべきなんでしょうね。
[0302]
There is, in other words, no logical, ontological, or even natural primacy involved in using the distinction being/nonbeing. An observer may continue to use this distinction and thereby become visible as somebody who continues the distinct observational mode of our metaphysical tradition. Or he may reject this focus and become visible as entangled in all the difficulties of observing without using the distinction being/nonbeing -- blurring, for example, its boundary without trying to replace it with other observational instruments.
換言すれば、存在/非在の区別を使用することのうちにはいかなる論理的、存在論的優位性も、あるいは自然的優位性すらないのだ。 この区別をしようし続け、そのことによって我々の形而上学的伝統という 顕著なdistinct* 観察モードを継続している者として目立つ=可視的になる観察者もいるだろう。
角田:
* distinctには「異常な」「滅多にない」という義あり。
あるいは、この焦点を拒否し、存在/非在の区別を使用することなしに観察すること ──それ[存在/非在の区別]を他の観察手段に置き換えようともせずにその[存在/非在]境界をぼやかそうとすること── のあらゆる困難に填ったものとして、目立つことになる=可視的になる観察者もいるだろう。(021031)
[0303]
A sociologist can find a relatively comfortable place in this game of observing systems. He may, for good reasons, focus on the societal system as the most important observer to be observed. Conscious systems (minds, individuals, subjects) are uninteresting for the simple reason that there are too many of them and it would be difficult to justify choosing one out of five billion or more.28 And other social systems -- science, for instance -- are only subsystems of the societal system with a very specific (albeit universal) mode of observing.29 The preference for observing the observer society remains a selection, remains contingent on specific observational interests. But it would be difficult to deny that in our present historical circumstances we are very concerned about not simply what modern society is but how it observes and describes itself and its environment.
28. We presuppose here without further ado that "the human being" (in the singular) has been deconstructed anyway.
29. The combination specific/universal refers to the pattern variable of the action theory of Talcott Parsons, and shows up, within this theory, as a distinctly modern type of framing of observations. See Parsons 1960*.
* "Pattern Variables Reviited." American Sociological Review 25 ( Reprinted in Parsons 1967, 192-219)
社会学者はこうしたシステムを観察する [観察する諸システム]*というゲームの裡に比較的居心地のよい場所を見出すことができる。
角田:
* ここは動名詞の方がいいように思います。
酒井:
これはハインツ・フォン・フェルスターの論文集のタイトルですね。
彼が観察されるべき最重要な観察者としての[全体]社会システムに焦点を当てるだろうということは、十分な理由がある*。
角田:
*これだと、「十分な理由」を挿入句に止めた原文のニュアンスは死んでしまいますね。くしゅん。
意識システム(心、個人=個体、主観)は、その人数が多くて、50億人以上のなかから[観察対象として]一人を選ぶことを正当化しがたいだろうというたんにそれだけの理由で、[社会学者の]関心を引かないのである。
28.ここでは我々は悩むことなく、(単数の)「人類」はとにかく脱構築されてしまっているということを前提としている。
そして他の社会システム──例えば科学──は、全体社会システムの、とても特種的=限定的な(しかしながら普遍的な)観察様式をもったサブシステムにすぎない。
29. 特種的=限定的/普遍的*という組み合わせはタルコット・パーソンズの行為理論のパタン変数**を参照しており、この[パーソンズの]理論においては、観察の枠組化の近代的な類型を特徴づけるものとして示されている。Parsons 1960 を見よ。
角田:
* パーソンズのPVでは、universalはparticularと対立し、specificはunspecificと対立していたと思います。というか、「/」を 使ったルーマンの提示の仕方は誤解を招きやすいのでは?
** 古では、「形相変数」という訳語もありました。復活させたい。
酒井:
書くならたとえば、
   universal+specific
とかにしとけ、ということですね。ところでパタン変数のルーマン的用法を巡る問題については、→高橋徹本の“どっかの注”も参照のこと。
社会という観察者*を観察する選好は常に選択[されたもの]なのであり、[それは]常に特種的な=限定された観察関心に対して偶有的なのである[に依存しているのである]**。
角田:
* やはり、同格ですよね。あるいは「観察者の社会」か。それはちょっとありそうにない感じがします。
酒井:
“普通の感覚”だと、「社会という観察者」のほうが“ありそうにない”と思うんですけどね(藁
角田:
** 一番最初に読んだdouble contingencyの解説では、たしか「二重の相互依存性」と訳してありました。
酒井:
そいつは確か、佐藤勉さんが『社会大系論』を訳したときに採用した訳語。
ルーマンは、パーソンズから contingency 概念を引き継ぎつつそいつをアリストテレス・スコラの様相概念まで遡って(w 定式化し直したわけですが、いまの文では──そこを踏まえてあえて偶発的と訳さずとも──「依存的」と訳してもかまわなさそうな感じですね。
しかし、我々の現在の歴史的状況において、我々が関わっている=憂慮している*のが、“近代社会とは何か”ということだけでなく、“近代社会がそれ自身とその環境を如何に観察し・記述しているのか”ということであることは否定しがたい。(021103)
角田:
*たんに「関心を寄せている」でもいいような気がするのですが、手元の英和辞典による限りは、訳しがたい、と。
[0304]
Taking the society as an observer and even as the most important observer needs, of course, theoretical preparations. Some of these have been explained in section II. We have to define the concept of observation abstractly so that it can be applied to psychic and to social operations, to perception and thinking and to communication as well. Observation is nothing but making a distinction to indicate one side and not the other, regardless of the material basis of the operation that does the job, and regardless of the boundaries that close a system (brain, mind, social system) so that it becomes an autopoietic system, reproduced by the network of its own operations, and eventually irritated but never determined by its environment.
もちろん、社会を観察者だと、さらには最重要な観察者だと 見なすためには理論的な準備が必要である。 この一部は[既に]第2節で説明されている。
(ー'`ー;)してねーよ
観察という概念が心的オペレーションにも社会的オペレーションにも ──[すなわち]知覚と思考ならびにコミュニケーションにも── 同様に適用可能であるためには、 観察という概念を抽象的に定義しなければならない。 観察とは、別の側ではなく一方の側を指示するために区別を為すこと 以外の何ものでもない。 それは[区別を]行うオペレーションの物質的=素材的*基盤にかかわらずであり、 システム(脳、心、社会システム)を閉じる境界にかかわらずであるため、 自らのオペレーションのネットワークによって再生産され、 その環境によって時に刺戟される=いらつかせられることはあるが、 決して決定されることのないオートポイエティックなシステムとなるのである。(021103)
角田:
2つに割っちゃいました。
*形式/素材という対立も一応考慮に入れたつもり。
#それにしても、ここでは作動/操作で迷いますね。
酒井:
以降、迷うときはオペレーションにしちゃいましょう。
[0305]
Accordingly, we have to redefine the concept of society. Conceived as an observing system, society cannot be described as a collection of different, somehow interrelated items such as human beings, or actions, structures and processes, elements and relations -- or whatever our traditional frames suggest. In this way, the unity of such "collections" becomes incomprehensible, and as we already know, this ambiguity protects the underlying paradox that cannot be permitted to appear. However, recent developments in systems theory suggest frames and more promising unfoldings of the underlying paradox. We can think of society as the all-encompassing system of communication with clear, self-drawn boundaries that includes all connectable communication and excludes everything else. Hence, the society is a self-reproducing system, based on one, and only one, highly specific type of operation, namely communication. It excludes other types of operationally closed systems -- cells, neurons, brains, minds. All this, and much more, is of course presupposed in the very process of communication. It is presupposed in the sense of a necessary environment (and we remember: the form of a system is the difference of system and environment). Living systems and conscious systems can produce only their own reproduction, replacing states of awareness by and with other states of awareness. They can never, by their own mode of operation, communicate. For communication requires the production of an emergent unity that has the capacity to integrate and disintegrate the internal states of more than one operationally closed system.
従って[orそれゆえに]*、我々は社会という概念を再定義しなければならない。
角田:
*何に「従って」かといえば、前の段落全体ということでしょうか。
社会は、それを観察するシステムとして考えると{or見なすと}、 人間、あるいは行為、構造と過程、要素と関係といった さまざまな、何かしら相互に関係している諸項の集積としては、 ──あるいは我々の伝統的な=従来の枠組が示唆する何ものとしても── 記述することはできない。 このようにする*と、そうした「集積」の統一は不可解なものになり、 既に周知のように、こうした曖昧さこそが基底にある顕れてはならないパラドクスを 保護しているのである。
* 酒井:
これ、「社会を観察するシステムだと考えれば、これまで[の社会学]に見えなかったパラドクスがみえてくる」という意味でいいすね?
しかしながら、システム理論の最近の発展=展開は 基底にあるパラドクスの枠組とより見込みのある展開を示唆しているのだ。 我々は[全体]社会を、 すべての接続可能なコミュニケーションを包含し それ以外すべてのものを排除する 明確な自らによって引かれた境界をともなったった 全包括的なコミュニケーションのシステムとして考えることができる。 だから、[全体]社会は、 一つの、そしてただひとつの高度に特種的=限定的なタイプの作動、 つまりコミュニケーションに基づく 自己再生産するシステムである。 それは他のタイプの作動的に閉じたシステム──細胞、ニューロン、 脳、心──を排除する。 すべてこのこと、そして遥かに多くのことが勿論、 コミュニケーションのまさにその過程において前提されている。 それは必要な=必然的な環境という意味において前提されているのだ (そして覚えておこう: システムの形式とは、システムと環境の差異である)。 生体システムと意識システムは、 意識状態を他の意識状態に置き換える*というように、 自らの再生産しか産出できない。
角田:
* replace byもreplace withもほぼ同義なのですが、ルーマンがわざわざby and withと言っている以上、何かしら差異があるわけですよね。
酒井:
どうやって表現しましょうかね。
それらは、それら固有の作動モードによって コミュニケートすることは断じてできない。 というのは、コミュニケーションには、 2つ以上の作動的に閉じたシステムの内的状態を統合したり 分解=脱統合したりする 力能capacity をもつ創発的 単体unity が必要なのだ。(021105)
この文、どういう意味????
[0306]
Operational closure seems to be the necessary empirical condition of observations.30 Without closure, the system would continually mix up its own operations with those of its environment, conscious states with external states or words with things. It could not make the (reentering) distinction between self-reference and external reference. It could not even match external and internal states. It could not separate the observer from the observed. It could not produce cognition. What we know from brain research is also true for communication. The lack of an operational access to the environment is a necessary condition for cognition. And therefore, all constructions remain deconstructible by other observers. They can do it -- if they can.
30. I underline empirical to insist that it is not a transcendental a priori in Kant's sense, based on the distinction (always distinctions!) between the empirical and the transcendental, the realm of causality and the realm of freedom. But it is a condition of possibility in Kant's sense, a condition of the possibility of observations.
作動的閉鎖は観察の必要な経験的条件であるようだ。
30.私は経験的を強調しているが、それはこれが経験的なものと超越論的なものとの、[つまり]因果性の領域と自由の領域との区別(常に諸区別である!)に基づくカントのいう意味での超越論的アプリオリではない ということを主張するためである。しかし、それはカントのいう意味での可能性の条件、[つまり]観察の可能性の条件である。
酒井:
こういうモノイイはカンティアンに怒られそう...
閉鎖なしには、システムは自らの作動とその環境[内の他のシステム]の作動を、意識の状態と[意識の]外部の状態を、あるいは言葉とものを継続的に取り違えてしまうだろう。 自己準拠と外的準拠の区別(を再参入させること)もできないだろう。 外的な状態と内的な状態を組み合わせることさえできないだろう。 観察されるものから観察者を分離することもできないだろう。 認知を産出することもできないだろう。 脳の研究から分かることは、コミュニケーションにもまた当てはまるのだ。 環境に対する作動的アクセスの欠如は、認知の必要条件である。
おっさんこんなの文全体イタリックにするようなことか、と問い詰めたい。
そして従って、すべての構成=構築は他の[=二次の]観察者によって脱構築されうるのである。 [二次の]観察者は脱構築ができる──もしもできるなら。(021106)
ブレヒトにこんなのありましたねー。
曰わく「我々は社会を変えられる。もしも我々が社会を変えられるなら」と。
[0307]
How, then, does society observe and describe the world by using itself as a system-reference, by developing the higher reflection capacities of a system, and by using the distinction between system and environment (between words and things) to dissolve the paradox of the world as a frameless, undistinguishable totality that cannot be observed?
ならば社会は、 自らをシステム準拠として用いることによって・ システムのより高度な反省力能を開発することによって・ システムと環境との(言葉と物との)区別を用いることによって、 観察することのできない、枠組のない・識別不能な全体性としての世界 というパラドックスを解除し、 如何にして世界を観察し・記述するのだろうか。(021107)
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