socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
掲載開始:021105
最終更新:021105

[0202] 検討!

One interesting convergence is already visible.
ひとつの興味深い収斂が既にみえている。
Date: Sun, 13 Oct 2002 18:19:20 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04071] Re: [ ・∀・ ]0202
ドイツ語では「最初の」っていうのが入っていますね。
Date: Tue, 5 Nov 2002 01:28:44 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04237] 4071[* ∀ *]0202検討
こういうのは困りますね。。。
もし「次の」収斂が出てきたら、それを受けて挿入しましょうか(^_^;)

Everything that is said (including this proposition) is said by an observer.
(この命題を含む)述べられるものすべては観察者によって述べられるものである***。
ところで、日本語的には「(この命題を含む)」の位置がなんとも。
 1.(この命題を含む)述べられるものすべては観察者によって述べられる
 2.述べられるものすべて(この命題を含む)は観察者によって述べられる
 3.述べられるものすべては観察者によって述べられる(この命題を含む)
Date: Sun, 13 Oct 2002 18:19:20 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04071] Re: [ ・∀・ ]0202
ドイツ語では観察者の前に「常に」があります。
酒井:
ところで、日本語的には「(この命題を含む)」の位置がなんとも。
ドイツ語では副詞として使っているので、「を含めて」とするのも一案ですね。
Date: Tue, 5 Nov 2002 01:28:44 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04237] 4071[* ∀ *]0202検討
ドイツ語では観察者の前に「常に」があります。

これも困る(^_^;)
ちなみに『知恵の樹』を確認したところ、11頁で、ベイトソンの「金言」を──その名を挙げずに──引用しているところでは、「常に」は入ってませんでした。意味としてには、
 「述べられるものすべては観察者によって述べられるものである」
と言っただけで、すでに「常に」が“言われている”のと同じことなんでどっちでもいいとは思うんですが。

ドイツ語では副詞として使っているので、「を含めて」とするのも一案ですね。
これ、いただきましょう。
述べられるもののすべては(この命題を含め)観察者によって述べられる
って感じですね。

For language use itself is the choice of a system that leaves something unsaid.
言語使用それ自体がシステムの選択であり、何かしら言わないものを残すからだ。
角田:
forは理由の接続詞と取ったのですが、ニュアンスとしては、「から」というよりも、だって~なんだもん、の方が近いかと思います。
Date: Sun, 13 Oct 2002 18:19:20 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04071] Re: [ ・∀・ ]0202
このとき、関係代名詞の先行詞が、ドイツ語側ではシステムであると確認できます。ですから、
  「何かが言い尽くせぬままに残ってしまうものであるシステムの」
なんていうやり方も思いつきます
Date: Tue, 5 Nov 2002 01:28:44 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04237] 4071[* ∀ *]0202検討
いただきましょう。すると、
言語使用それ自体が、
何かしら語られざる物が残ってしまうものであるシステムの選択であるからだ
と。

Date: Sun, 13 Oct 2002 18:59:07 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04073] Re: [ ・∀・ ]0202
ここで、タイトルの「二次観察としての脱構築」というのが、ルーマンが俺と同じじゃないかと思い ながらデリダの脱構築との類似性を述べるというスタンスではなく、俺の二次観察こそは真の脱構築 だぜ、という意味でつけているものではないかな、という予感が起りました。
面白いですね。デリダ型脱構築とルーマン型脱構築の間の差違。
Date: Tue, 5 Nov 2002 01:28:44 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04237] 4071[* ∀ *]0202検討
このへんはアンビヴァレントだろうという気がしています。一方では、
1)観察には「脱構築的」事態がつきまとう。だからシステム理論は、デリダから学ぶ必要がある
ということも言いたいだろうし、他方では、
2)自分の観察概念を使えば、「脱構築的」事態に照準を合わせつつも、それをデリダとは異なる仕方で議論・敷衍することができる
という提案もしたい*のだろう、と。
 つまり、「デリダの議論からの学習」と「デリダの議論の再定式」、どちらも目論まれているんじゃないでしょうか。
* というかそもそも「学習する」ことができるためには、「再定式」できなければならないので、
というのも人は、自分の学ぶことができることをしか──つまり自らが再定式化しうるものからしか・自らが再定式化しうるようにしか──学ぶことができないのですから
「学習」と「再定式」は循環的な関係──あるいはパラドクシカルな関係(藁──にあるだろう、という言い方もできると思いますけど。

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