socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
掲載開始:021027
最終更新:021101

[0201] 引用

ここには、ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』第1章「力と意味」からの引用のみがおいてあります。
ディスカッションは、また別途。
#洒落でルビを使ってはみたが、IE5以上じゃないと効かない+MACだと表示おかしいぞ、と。φ(。_。)メモメモ
  1. "le sens (de sens)"
  2. "signalisation"
Date: Fri, 11 Oct 2002 23:16:49 +0900
From:S
Subject: [luhmann:04053] Re: [ ・∀・ ]0201
邦訳書p.23、告知作用という語にシニャリザシオンとルビが振られていますね。
Date: Sun, 27 Oct 2002 02:39:07 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04181] 4053 [* ∀ *]0201検討!
ご教示ありがとうございました。
以下、『エクリチュールと差異』第1章「力と意味」[邦訳19頁~]から引用。
私たちの訳の方も、邦訳の「告知作用」を採用させていただきました。下記引用文中の →ここ をみると、significationsignalisation ということのようですが、ルーマンはどうして、signalisation の方を選んで引いたんですかねぇ。。。???

[‥‥] 書くということはすなわち、次のようなことを知ることなのだ。

まだ文字の中に産み出されていないものは、他にも棲家を持たないのだということ、それは一種の topos ouranios か神の悟性の中に あらかじめしるされたものprescription としてわれわれを待ち受けるものではないのだ、ということを。意味がおのれを棲家として住みつき、意味がおのれと異なることによって意味であるようなものとなるためには、意味が言われ書かれることが必要なのだ。フッサールが→『幾何学の起源』を通じてわれわれに考えさせるのは、このことである。文学的行為はこのようにしてその源において自らの真の力に再びめぐり会うのだ。メルロ=ポンティは、→『真理の起源』と題する著書に含まれる予定の断章の中で書いた。 《文学におけるコミニーケーションは、ただ単に、人間精神の先験性の一部を成す意味作用にうったえる、というようなことではない。むしろ、コミュニケーションが人間精神の中に訓練の結果か一種の隠微な作用によって意味作用を惹起するのだ。作家の裡では、思考が外側から言語を操るのではない。作家は自らが構成されていく一つの新しい固有言語のようなものなのだ……》 フッサールはまた 《私のことばが私自身を不意打ちし、私に自分の考えを教える》 とも言っている。

書くことが危険で苦しいのは、それが事始めであるためだ。書きながら、自らその行き先は知れない。どのような知恵も、それが本質的な疾走となって意味の方へ向かうのをとめることはない。意味は書くことによって作りなされていき、意味は初めはその行く手にある。とはいえ、この行為は気紛れに委ねられているというわけではない。そうなるのは気おくれした場合だけである。だから、こうした疾走の危険性に対する保障はないわけだ。書くことは、作家にとっては、作家が無神論者でない場合でも、作家である限りは、初めての、しかも恩寵のない航海なのだ。聖ジャン・クリゾストムは作家について語ってでもいたのだろうか。 《書くことに頼る必要があるのであってはなるまい。そうではなく、神霊の恩寵が魂の内で書物にとって代わり、書物の上のインクのように、われわれの心の中に記されていくために、われわれの生を清澄なものにして捧げなけれはなるまい。文字を用いなけれはならぬのは恩寵を拒んだがためであり、文字は二度目の航海のようなものだ。》 しかし、神学上の信念とか確信とかは一切措くとすれば、二度目という体験は、成立させられた意味つまり文字が、前もってかあるいは同時に読まれたものとして差し出されるという奇妙な重複性のせいではないだろうか。そしてこの関係のなかでは、他者が眼ざめていて、書くことと読むことの間の往復作用を取り消しえないものとするのではないだろうか。意味は行為の前でも後でもない。人の一切の航海を二度目のものに変えてしまう、この、神というもの、それは、読むことと書くこととの間の相互性に時間的なずれを生じさせるようなこの過程のことではないだろうか。つまり神とは絶対孤独の立会人のことだ。書き始めることはすでに読まれており、話し始めることはすでに答えだ、というような対話のなかで、意味の透明性と化した第三者のことだ。ロゴスの被造物であると同時に父。ロゴスの循環性であり、またその伝達性。恩寵とはその不在でしかありえぬような、帰依と放恣との奇妙な共同労作である。

してみると《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表わすだけだ、と考える単純な先行論は、謬見だということになるだろう。イデアリスムと呼ばれる伝統批評がそれなのだ。この偏った理論(ここでは神学と呼んでもよい)がルネッサンス期に開花したのは偶然ではない。こうした《プラトン主義》や《新プラトン主義》に抗するという点では、たしかにルッセは最近の他の多くの人々と同様である。しかしルッセにおいては、《思想に富んだ形式》(ヴァレリ)による創造とは、たしかに表現の単なる透明さのみではないにしても、しかしそれでもやはりそれは形式であると同時に啓示でもあるのだ、ということが忘れられてはいない。もし創造が啓示ではないのなら、作家の有限性はどんなに惨めなものになるだろう。神に見棄てられたその手はどんなに孤独なものになるだろう。おそらくその時には、神の力による創造という考えが、偽善的なヒューマニズムの中で息を吹き返すことになるのだ。書くことが事始めであるのは、創造するからではなく、すでに在るものを言い、記号として現われさせ、きっかけを引き受ける、というこの絶対的自由の部分のためなのだ。応答は自由なのだ。これを限る地平線と言ってはただ歴史世界と、そして《存在はいつもすでに始まってしまっている》としか言えないことばパロールだけなのだから。作家の創造とは啓示だ、とルッセが言うとき、かれは古典批評に背を向けてはいないことになる。古典批評を了解し、それと対話しているのだ。 《秘密があらかじめ存在し、作品によってそれをあばくこと。こうやって、古い美学と新しい実学がある程度和解するのがわかるだろう。あらかじめ存在している秘密とは、ルネッサンス人の「思想」に相応するのだが、しかし新プラトン主義とは一切かかわりがない。》

詩が持っている真の文学言語の啓示力こそはまさに、自由なことばの可能性なのだ。《があるetre》という語(そして恐らくは、《語根語》とか《基本語》(ブーバー)という概念が表わしているもの)が持っている告知機能から解放された、自由なことばの。書かれたものが言語ランガージュとして現われるのは、それが 告知記号signe-signal としては死んだ時だ。その時、書かれたものは、書かれていることを語っているのであり、まさにそのことによって、送り返すのはそれ自体にでしかなく、意味作用を持たない記号、遊びかあるいは純然たる機能でしかない。なぜならそれは、自然的、生物学的、技術的な情報として、すなわち、ある存在者から他の存在者へあるいはある 能記signifiant から 所記signifie にいたる通路として利用されることをやめるのだから。そこで、逆説的に言うなら(というのは、実際いつもそうばかりとは限らないからだが)、記入inscription にだけ詩的な力がそなわる。言い換えれば、記号としての眠りの外へことばを喚びさます力が。ことばを紙に記入していく場合、その記入の本質的な志向、そして致命的な危険は、一切の現在的な知覚場から、あらゆるものが偶発的状況の感化を受けているようなあの自然的拘束力から、意味を独立させる、というこのことだ。書くということエクリチュールが単なる《声の模写》(ヴォルテール)でないのはそのためである。書くということは、意味を紙に記すことによって、あるいは無限な受け渡しを期待して沈み彫や溝や浮彫や平面に意味を託すことに上って、意味をつくり出すものなのだ。無限の受け渡し、といったことが今まで絶えず願われてきた、というわけではない。それに、純粋歴史性の始源としての、純粋伝達性の始源としてのエクリチュールの問題は、およそエクリチエールなるものの歴史の中の一つの歴史として割り与えられる目標テロスなのだが、この領域についての歴史哲学は永久に現われないだろう。こうした無限伝達の企図が実現しようとしまいと、企図されたというそのことは認められ尊重される必要がある。これがいつも必ず挫折するものだとすれば、それは企図そのもののまぎれもない限界と、それ自体の歴史性とを物語っていることになる。意味の自由な働きが、いつも自然と生活と心との領域の中にとざされている 意味作用signification(告知作用signalisation)の限界からはみ出すことがあるとすれば、それは 書く意志vouloir-ecrire の瞬間である。 書く意志は、意欲説によって説明されるようなものではない。書く行為とは原意志のあとに来る決定形態ではないからだ。反対に、書く行為が意志の意志たるゆえんを明らかにするのだ。これが自由というものである。経験的な歴史の場所と断絶して、経験の奥に隠された本質、すなわち歴史性それ自体に一致することを目指すのだ。書く意志であって、書きたい気持desir d'ecrire ではない。問題は傾性アフェクシオンではなく、自由と義務なのだから。存在にかかわるあり方として、書く意志は、この傾性から逃れる唯一の出口であろうと意志するだろう。しかしこの出口はただ目指されているだけであり、それも到達が可能かどうか、それが本当に傾性から逃れているかどうかは定かでない。傾性を帯びた存在、それは限定された存在だ。その場合には、書くとは、なおやはり、その有限性をやりくりする、ということになってしまうだろう。存在者とは別の所にある存在にいたること、それ自身では存在することも私を傾性で包むこともできないようなそうした存在にいたることを意志することになってしまうだろう。これは差異を忘れることになりかねない。ことばの現存のなかに、かの生き生きと純粋なと称することばのなかに、エクリチュ-ルを忘れてしまうことになりかねないのだ。

文学的行為が真に書く意志から発する限りは、その行為は疑いもなく純粋言語の再認となり、《純粋な》ことばへの使命に対する責任となり、そしてこの使命がひとたび聴かれるとき、そこに作家が存在するのだ。こうした純粋なことばは、ハイデッガーによれば、《記号性Zeichencharakter》とか《恐らくはさらにその意義性Bedeutungscharakter》に基づいてさえ、《その本質を誤りなく考える》ことは不可能なものである。

では一体、作品と始源的エクリチュール一般とを同一視する危険がないものであろうか。文学を書かれたもの一般から区別させる芸術という概念と《美》の価値とを解消する危険がないものだろうか。だがたぶん、こうして審美的価値なるものからその固有性を剥奪することが、逆に真の美を解き放つことなのだ。それなら美にはその固有性が存在し、美はその固有性に到達することがあるというのだろうか。[‥‥]

▲頁先頭
Date: Tue, 29 Oct 2002 17:50:51 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04201] Re: 4182/1/053[* ∀ *]0201 検討!
sens de sens のある場所がわかりました。邦訳書p50です。
Date: Tue, 29 Oct 2002 23:42:13 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04203] 4201[* ∀ *]0201検討 signalisation
またまたご教示ありがとうございました。
以下、『エクリチュールと差異』第1章「力と意味」[邦訳48頁~]から引用。
「意味の意味」という言葉は →ここ に出てきてます。

もっとも重大な点は、すでに述べたようにある幾つかの面では《ウルトラ構造主義》であるその方法が、ここでは、構造主義の最も貴重で独創的な意図を裏切っている、と思われることだ。構造主義は、それが最初に出現した生物学と言語学の分野では、とりわけ、その夫々の全体が、夫々の固有のレベルにおける緊密な整合性と補完性とを失わない、ということを基底としている。だから、ある与えられた布置関係のなかで、未発達や欠陥の部分の考察から始めること、言い換えれば、ある目標テロスとか理念上の規範とかに照らして、一つの 定向進化orthogenese の盲目的な先走りや神秘的な逸脱としか見えないような一切のものの考察から始めることを、自らに禁じているのだ。まず初めに、意味の機構に対して、自律性と固有の均衡に対して、また、各々の瞬間、各々の形体の良き構成に専心すること、これが構造主義的ということなのだ。すなわち、ある理念的形式タイプのなかに包括され得ないような一切のものを偶然の偏差の地位に追いやってしまうといったやり方を拒むということである。病理学的な異常でさえ、単なる構造不在ではない。やはりある機構としてあるのだ。だから、欠落とか逸脱とか、ある完全な理想的全体の崩壊として理解されるものではない。単なる、目標テロス到達の不成功といったものではない。

実際、構造主義が、目的原因論finalisme の拒否ということを、自分に課する掟、方法的規範として適用しようとしても、困難なことには違いない。そうすることは、目標テロスの見地から見れは一種の不服従の願望であって、こうした願望通りに事が行なわれることは絶対にない。構造主義とはつまり、この願望と現状との間の差異のなかで差異によって生きるものなのだ。生物学にしろ、言語学にしろ、また文学にしろ、終極から出発するのでなければ、どのようにして全体の機構を知覚するのか。あるいは少なくとも、終極を予定することから出発する以外に。そして、意味は全体のなかでしか意味ではないのだから、もしかりにその全体を活気づけているものが、ある終極の予想つまり一つの志向性(と言っても必ずしも初めに意識の志向性である必要はないが)でないとすれは、いったい意味とはどうやって現われてくるものなのか。幾つかの構造というものが現にあるのだとすれば、そうした構造の可能性は、いま述べたような基本構造から発しているのだ。この基本構造によって全体がひろげられ溢れていき、そしてさしあたっては最も不確定な形で残しておく必要のある或る目標を予想することにおいて、全体は意味を帯びるのだ。なるほど、一面では、全体のこうした繰りひろげの開始は、たしかに、時間と発生とを解き放つ(この二つと区別が無くなりさえもする)。しかしそれはまた他方では、生成に形を与えることによってそれを閉じこめてしまう危険でもある。形式によって力を沈黙させる危険でもあるのだ。

だから今では、次のようなことが確認される。ルッセに惹かれてこれを再読吟味してみれば、その内部から出てくる暗い影とはまた、形而上的な問題においてすべての構造主義に射している暗い影なのだ、すなわちそれは、意味が明かされる行為そのものによって意味は隠されてしまうというそのことなのだ、と。生成の構造なるもの、力の形式なるもの、を把握するということは、意味を獲得することによって意味を失う、ということであるのだ。生成と力との、純粋で固有な特性としての意味とは、その始めと終りとにおける休息ということなのであり、地平とか顔とかいったものの光景のやすらぎのことだ。こうした休息とやすらぎの中にあって、生成と力の特性は意味そのものによって曇らされてしまう。まことに、意味の意味とは、その裡より現われ出る一切のものによって、太陽に似ている。Le sens du sens est apollinien par tou ce qui en lui se montre.

力を現象の始源として語ること、それは恐らく何も語らぬにひとしい。それが語られるとき、それはもう現象なのだから。ヘーゲルがいみじくも明らかにしたように、現象を力によって説明することは一種の類語反覆である。しかしもしそんなふうにあえて語る時には、力の観念penseeを語ることを目指すべきではなく、言語が自らの外に出て言語の始源を語る無力さというものを目標とすべきなのだ。力とは、言語とは別のものだが、しかし、それなしには言語が言語でなくなるような同伴者である。

言語のこうした奇妙な動きを重んじ、言語を他に還元するようなことになるまいとすれば、やはりあの影と光の(自己開示と自己隠蔽の)暗喩に立ち帰る試みが必要になってしまうかも知れない。形而上学としての西欧哲学の基盤となったあの暗喩に。この晴喩が基盤になっているというのは、単に明暗の暗喩としてばかりではなく(たしかにこの観点から言えば、西欧哲学の全歴史は、歴史や光学を呼ぶ時のような意味での明暗学ではあるのだが)、しかしそればかりではなく、そもそも暗喩であるという点でそうなのだ。すなわち、ある存在者から別の存在者への移行として、あるいはある 意味概念signifie から他の意味概念への移行として、存在が初めに存在者に服しアナロジーによってその方へずれていくことで成り立っているような暗喩の一般、そうした一般的な暗喩は、論述discours を形而上学の囚われにしてどうしょうもなくおさえつけている根本的な重圧なのだ。これこそは宿命、ある《歴史》の中のふとした束の間の偶発事と考えたのではいささか愚かしくもあろうようなこれは宿命だ。歴史内的なin historia ちょっとした逸脱、考え違いと見なしたのでは。それは、歴史そのものとしてはin historiam、哲学における思考の地位の失墜であり、それによって歴史が開始されるものなのだ。それだけでも充分に、《失墜》の暗喩を括弧で囲むだけのことはある。こうした 太陽中心的なheliocentrique 形而上学においては、力は形相に置き換えられることによって(つまり暗喩的な眼に映じうる形体に置き換えられることによって)、すでに力そのものの意味から隔てられたのであり、それはちょうど、音楽の特性が音響学においては自分から隔てられてしまうのと同様なのだ。力の強さや弱さが、どうして明暗を表わす名辞で了解できようか。

現代の構造主義の出現と拡大にあたって、現象学との公然密接な依存関係が否定できないということ、これだけで、それを西欧哲学の最も純粋な伝統に属させるには充分である。それは、フッサールの反プラトン主義にもかかわらずかれをプラトンに引き戻しているあの伝統なのだ。ところで、現象学のなかには、強度や力を思考するのを可能にする概念を探しても見つからない。方向ばかりでなく力強さを、内的緊張intensionalite のうちの 内的in ばかりではなく緊張tensionを思考することを。価値のすべては、措定された主体subjet theoretique によって構成されるわけだ。光明と無明、明証性、ある意識にとっての存在と不在、意識の獲得またはその喪失、などという名辞による以外には、何ものも得られることはなく、また失いもしない。透明度が最高価値である。そしてまた一義性と。ここから、次のような困難が起こる。超越自我エゴの起源とその純粋時間性とを思考することの困難さ、目標が肉体として具現されることに成功したか失敗したのか、そして一般に危機的発作と呼はれている、あの不思議な衰弱状態は何なのか、を説明することの困難さだ。だから、ときとしてフッサールが危機的発作の現象や目標到達の挫折を《発生変異》として、つまり《非本質Unwesen》と見なすのをやめることがあるのは、次のことを示すためなのだ。こうした忘却は形相の側から命じられているものだ、と。またそれは、《沈積》として、真理を現像するために必要でもあるのだ、と。真理の開示のために、その照明のために。しかし、意識に力と衰弱とがあり、しかも衰弱の中の力というものがあって、これがあらわそうとするその行為において隠してしまうのはなぜなのだろうか。力と衰弱とのこのようなディアレクティックが、存在にかかわる思考の終極を示しているなら、このディアレクティックは、影と光によって、形式の言語で言われることは不可能なことだ。なぜなら、力は暗さではなく、また、形式に覆いかくされつつその実質、その質料マチエール、あるいは地下祭室クリプトとなるようなものではないからだ。力とは、一対の対置によって、つまり現象学と神秘学オキュルチスムとの共犯によって思考されるものではないからだ。それにまた、現象学の内部で、意味に対置される事象のように思考されるものでもないのだ。

だから、このような言語から解き放たれることを試みなければならない。いや、それはわれわれの歴史を忘却することなしには不可能である以上、解き放たれることを試みるのではない。それを夢見るのだ。解き放たれるということは無意味だし、われわれから意味の光を奪うことになるのだから、解き放たれるのではない。可能な限り長くそれに抗うのだ。とにかく、今日のところもっとも精緻な構造主義的形式主義のあの悪酔いのくつろぎでそれに身を委ねるようなことはしない必要があるのだ。

批評が、もしやがていつか文学行為エクリチュールの側から解き明かされそれと入れ代ろうとしているのなら、このような抵抗がまず初めに一つの《哲学》のなかで編成され、その哲学が規定する或る美学の方法論からその原則を貰い受けるようなことになるのを、手を洪いて待っているべきではない。なぜなら、哲学とは、歴史の中では、詩の戴冠の反照として決定されたものだからだ。哲学だけを取って考えてみるなら、それは力の黄昏であり、言い換えれば、形象イマージュと形式と現象とが語り出す 太陽のあけぼのle matin ensolleile、思想と偶像のあけぼの、そこでは力の浮き沈みは休息と化し、光のなかでその深みはならされ、平らな地平にひろがっていくのだ。文学批評というものが、自覚のあるなし、意図のあるなしはともあれ、文学の哲学としてすでに決定ずみであることを思うと、企ては絶望的なものだ。言い換えれば、文学批評が、すでに述べたように構造主義としてだけ限定はできないような戦略的操作を思い切って開始するのでない限りは、そうなのだ。もしそうしなけれは、批評は、構成的調和eurythmie とか幾何学とかの、視線の特権、つまり《何よりもまず、眼にヴィジョンの能力を授けてくれる眼の興奮を惹起する》アポロン的胱惚、これらのものを退ける手段も、とりわけそのきっかけも得られないだろう。自らを凌駕して、ついには、力と線を移しかえる運動とを愛するにいたること、それも運動を、線の偶発とか 顕現エピファニー としてではなしに、運動として、欲望として、そのままに愛するにいたることはできないだろう。書き進む行為エクリチュールに到達することはできないだろう。

これだったのだ、冒頭に語ったあの 郷愁ノスタルジー、あの 憂愁メランコリー、あの夢さめたディオニュソスの祭りは。『形式と意味』をしめくくっている、あのクローデル的構造の《単調さ》に対する讃歌の奥にこのことを感じ取るのはまちがっていると言えようか。

結論すべき時なのだろうが、議論は果てしない。ディオニュソスとアポロンの間の、躍動と構造との間の 葛藤differend つまり 差異difference は、歴史の中で消滅することはない。それは歴史のなかにはないからだ。並みはずれた意味において、差異もまた始源的な構造だからなのだ。つまりは歴史の開始、歴史性そのものなのだ。差異とは、歴史だけに属しているものでもまた構造だけに属しているものでもない。シェリングとともに《一切はディオニュソスにほかならぬ》と言うべきなのだとしても、やはり知らねばならないだろう(すなわち書かねばならないだろう)、純粋な力として、ディオニュソスは差異を蒙るものであることを。かれは見、そして人に見られるがままになる。そして人の限をえぐり、おのれの眼をえぐる。初めからいつでも、かれはその外部に対して、可視の形式に対して、構造に対して、関わりを持っているのだ。おのれの死に対してのように。──かくてディオニュソスは、自らに対して現われる。[‥‥]


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