socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
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訳稿更新:021029
検討更新:021105

ニクラス・ルーマン「脱構築という二次の観察」02

Niklas Luhmann "Deconstruction as Second-Order Observing".

[0201]
There are some important lessons that could be drawn from this research on second-order observing systems for reformulating the intent of deconstruction. It is not our task, however, to try to clarify what Derrida possibly means. Derrida himself distinguishes le sens de sens ("the meaning of meaning") and signalisation, which could mean "making and deferring distinctions" on the one hand and "indications" on the other.18 His writings are écriture in his own sense (that is, "inscriptions").l9 It remains open what they indicate. They have to be self-deconstructive to show how it works. And this is a form that exactly fits its philosophical intentions. But this does not mean that there can be no further steps. Derrida does his best to keep out of sight the presuppositions of using distinctions. But also one a pursue the contrary objective of making the architecture of theories as clear as possible so that an observer may decide whether to follow their suggestions or choose at certain points an alternative path.
18. See Derrida 1967, 41.
19. See Derrida 1972b, 11
二次の観察[を為す]システムについてのこの研究から、脱構築のもくろみを再定式化するために引き出すことができるかもしれない、幾つかの重要な教訓がある。 しかしながら、デリダが恐らくは意味していることを明確化*しようと努めることなど、我々の課題ではない。
角田:
*clarifyには「浄化する」という意味もありますね。
デリダ自身は、le sens de sens(「意味の意味」)とsignalisation[信号=告知]とを、区別している。 このことは、一方では「区別を為し・区別を遅延すること」また他方では「指示を為し・指示を遅延すること」を意味しうる
18 Derrida 1967, 41.を見よ。[→邦訳(邦訳該当個所:→意味の意味告知作用)]
彼の書き物は彼独自の意味において écriture*(つまり「刻銘inscriptions」)なのだ。
19 Derrida 1972b, 11を見よ。[→邦訳
それら[=デリダのécriture=inscriptions]が何を指示するのかは開かれたままになっている。 それらは脱構築がどのように働くか示すために、自己-脱構築的でなければならない。 そして、このことはその哲学的意図に正確に適合した形式なのである。 だがそれは、これ以上段階=歩みがありえないことは意味していない。 デリダは区別を使用する[際の]諸前提を視野から閉め出すべく最善を尽くしている。 しかし、できるだけ明晰な理論のアーキテクチャーを作るという逆の目標を追求することも また 可能なのだ。観察者が、理論という きっかけ に従うのか、それともある地点で代替経路を選ぶのか を確定できるようにするために、である。(20021013)
[0202]
One interesting convergence is already visible. A famous dictum of Humberto Maturana (within the context of his biological theory of cognition) says: Everything that is said (including this proposition) is said by an observer. The Derridean interpretation of Joseph Margolis leads to a very similar result: "Everything we say... is and cannot but be deconstructive and deconstructible."20 For language use itself is the choice ofa system that leaves something unsaid. Or, as Spencer Brown would say, drawing a distinction severs an unmarked space to construct a form with a marked and unmarked side. It may go too far to say that language use as such is deconstructive. But observing an observer who uses language certainly is. For on this level one can use transjunctional operations and reject (or accept) the distinctions that frame the observations of the observed observer. At the level of second-order observing, everything becomes contingent, including the second-order observing itself.
20. See Margolis 1985, 146.
ひとつの興味深い収斂が既にみえている。 (彼の認知の生物学的理論の文脈における)ウンベルト・マトゥラーナ*の有名な言明**ではこういわれている:述べられるものすべては(この命題を含め)観察者によって述べられるものである***
角田コメント: 
*『知恵の樹』での著者表記に従いました。西班牙語ではhは発音しないです。因みに、vとbの区別もしないので、ヴァレラではなくバレーラ。
**ニュアンスとしては「お言葉」という感じです。「金言」という言葉もありますが。
酒井:
*** これはグレゴリー=ベイトソンの金言
    述べられたことのすべてには、それを述べた人がいる
のヴァリエーションですねー。
ジョセフ・マーゴリスのデリダ的解釈は、「我々がいうことすべては……脱構築的かつ脱構築可能であり、そうであるしかありえない*」というとてもよく似た帰結に至っている。
20 Margolis 1985, 146を見よ。
角田:
辞書的には、~せずにはいられない、なのですが。can't but fall in loveの。
マーゴリスについては、
http://www.pragmatism.org/library/margolis/margolis.htm
http://www.kli.ac.at/theorylab/AuthPage/M/MargolisJ.html
酒井:
二つの命題、
 ○述べられることのすべては観察者によって述べられる
 ○述べられることのすべては脱構築可能でしかありえない

は、“似て”ますかね。これを似てるというためには、すでに
   観察⊃脱構築
という前提が必要なような。
#いや、私は似てると思いますけど。だって、そう前提しているからね(w
言語使用それ自体が、何かしら語られざる物が残ってしまうものであるシステムの選択であるからだ。 あるいは*、スペンサー・ブラウンならこういうだろうけれど、区別することはマークされていない空間を切断し、マークされた側とマークされていない側をもったひとつの形式を構成することなのだ。
角田:
*「すなわち」と訳そうとも思ったのですが、いきなり文頭に置かれたorを「すなわち」という意味で使えるかどうか自信がなかったので、日和りました。
言語使用それ自体が脱構築的だなんて言い過ぎかも知れない。
角田:
ちょっとくだけすぎでしょうか。
酒井:
はい。
しかし、言語を使用する観察者を観察することは確かにそう[いう脱構築的なこと]なのだ。 このレヴェルでは、超言的操作を使用し、観察されている観察者の観察を かたちづくる=枠づけるframe 区別を棄却(あるいは受容)することができるからだ。 二次の観察のレヴェルにおいては、二次の観察それ自体を含めて、すべては偶発的になる。(021016)
酒井:
とりあえずこの段落も、なんら「説明」にはなってないっすねぇ。 最後から2番目の文が、ちょっと「考え落ち」かなーくらいなもんで。
[0203]
But what do we gain by this transition from deconstruction to second order observing? What do we gain by avoiding the deconstruction of deconstruction and taking into account some of the results of more recent research on observing systems? There are several points to be mentioned:
しかし、こうして脱構築から二次の観察へと移行することによって我々は何を得るのだろうか? 脱構築の脱構築を回避し、観察するシステム{=システムを観察すること}についてのより最近の研究成果を考慮することによって何が得られるのか?  [以下のように]言及されるべき幾点かの論点がある:
[0204]
1. Observations are asymmetric (or symmetry-breaking) operations. They use distinctions as forms and take forms as boundaries, separating an inner side (the Gestalt) and an outer side. The inner side is the indicated side, the marked side. From here one has to start the next operation. The inner side has connective value. For example, it is the immanent (and not the transcendent), the being (and not the nonbeing), or the having property (and not the not-having). The inner side is where the problem is -- the problem of finding a suitable next operation. In the formal language of Günther, it has a positive (designative) but not a negative (reflective) value. Nevertheless, all observations have to presuppose both sides of the form they use as distinction or "frame."21 They cannot but operate (live, perceive, think, act, communicate) within the world. This means that some thing always has to be left unsaid, thereby providing a position from which to deconstruct what has been said.
21. I use "frame" in the sense of Erving Goffman. See Goffman 1974.
1.観察とは、非対称な(あるいは対象性を-破る)操作である。 観察は、形式として区別を用い、内側(ゲシュタルト)と外側を隔てる境界として形式を受け取る。観察は区別を形式として使用し、形式を内側(ゲシュタルト)と外側を分離する境界としている{=と解する=として引き受ける}。 内側というのは、指示される側、マークされた側である。 ここ[=内側]から次の操作が開始される筈だ{=されなければならない}。 内側は接続価値*を有している。
角田:
* 次を読んでも、「接続価値」というのは??です。
酒井:
そのもう一つ下の文、
 〈否定的・消極的(反省的)/肯定的・積極的(指示的)〉
というのの、後者にあたるんじゃないかと思います。
例えば、内側は内在的なものであり(超越的ではなく)、存在であり(非在ではなく)、あるいはまた持てる*(持たざるではなく)側である{=固有性/財を持つものであり(そして持たざるものではない)}[、という具合だ]。
角田:
the + 形容詞で、名詞化しておきましたが。
酒井:
ドイツ語「訳」のほうでは、the having property は、das Haben でした。
内側は問題の在処である--適切な次の操作を見出すという問題の。
角田:
しかし、意味としては、
 内側は問題、すなわち適切な次の操作を見出すという問題の在処である。
の方がsuitableだとは思うのですが。
ギュンターの形式的言語で言えば、内側は否定的(反省)な値ではなく・肯定的(指示的)な値を持っている*。
角田:
このセンテンスのbutは意味不明で、もしbutをベタに取るならば、
  「否定的(反省=再帰的)な値ではあるが、肯定的(指示的=明示的)な」
とした方がいいのでしょうか。
酒井: 内容からすれば、「ではなく~な」でいいと思います。
とまれ、あらゆる操作は区別あるいは「フレーム」として使用する形式の 側を[=形式には 二つの 側があるということを]前提としている。
21. 私は「フレーム」という言葉を、アーヴィング・ゴッフマンのいう意味で使用している。Goffman 1974をみよ。
観察は 世界の内側 以外で操作する(生き、知覚し、思考し、行為し、コミュニケートする)ことなどできない。
酒井:
"in-the-world-system" ということなわけで。
これは、何かが常に語られざるままになっており、それゆえ[そのことが]そこから語られたものを脱構築するためのポジションを用意しているということなのだ。
[0205] 2. If one tries to observe both sides ofthe distinction one uses at the same time, one sees a paradox -- that is to say, an entity without connective value. The different is the same, the same is different. So what?
もし使用されている区別の両側を同時に観察しようとすれば、パラドックス──言ってしまえば、接続価値のない ものentity*
──を見ることになる。
酒井:
* entityは困りますなぁ。ドイツ語版では、Einheit なんで、ユニットとでも訳しときますか。。。とりあえず、たんに「もの」でもよさげなとこなので、そうしときました。
異は同、同は異。 だからなに?(20021019)
酒井:
マクベスの邦訳に準拠して訳せば、「ちがうはおなじ。おなじはちがう。」ってとこでしょうか。
でも the がついてるから、それじゃまずいのかな。
ちなみに誰かの論文のタイトルだったよな~と思って検索かけたら↓
http://www.univie.ac.at/constructivism/people/glanville/cv.html
Ranulph Glanville
"The Same is Different"
in Zeleny M (ed) "Autopoiesis" Elsevier, New York, 1980
[0206]
First of all, this means that all knowledge and all action have to be founded on paradoxes and not on principles; on the self-referential unity of the positive and the negative -- that is, on an ontologically unqualifiable world. And if one splits the world into two marked and unmarked parts to be able to observe something, its unity becomes unobservable.22 The paradox is the visible indicator of invisibility. And since it represents the unity of the distinction required for the operation called observation, the operation itself remains invisible -- for itself and for the time being.
22. See Spencer Brown 1979, 105.
何よりもまず、この[用いている区別の両側を同時に観察しようとすれば、 パラドックスを見ることになるという]ことは、 すべての知識・すべての行為が諸原理ではなく、諸々のパラドックスに 基づいている筈だということ、 肯定的なものと否定的なものからなる自己準拠{=指示・言及}*的な統一に、 つまり存在論的に形容=限定不可能である世界に基づいている筈だということを 意味している。
角田:
* 何を選びましょうか。
#それにしても、principleとparadoxは対立項なのですか。
酒井:
うーん。。。
何かを観察することが可能になるなるために、 世界を、マークされた部分とマークされざる部分に二分割するならば、 その統一は観察不能*になる。 22. Spencer Brown 1979, 105を見よ。
酒井:
* この「観察不能な世界」というフレーズは、絵描きを交えた鼎談集のタイトルにもなってます。
Unbeobachtbare Welt. Uber Kunst und Architektur.
Niklas Luhmann, Frederick D. Bunsen, Dirk Baecker
パラドックスは不可視性を可視的に指示するのである。
角田:
或いは、
  可視的なものとして指示する?
酒井:
「見えないものを指示する見えるもの」というトリヴィアルな意味ですが、日本語にするとなんか分かりにくいですね(^_^;;)
そして、それ[=パラドックス]が観察と呼ばれる操作のために要請される 区別の統一を代理{=表象}しているので、その操作[=観察]それ自体は ──それ自体にとっては、そしてさしあたっては──不可視のままにとどまる。(021021)
角田:
これは現象学で言うところの、反省の限界というか機能する理性の自己盲目性の問題ですね。
酒井:
そうすね。というか、パクリすね。
ちなみに、ここで呼び出されている「観察」と同様に、ルーマン理論においては、 「システム」や「コミュニケーション」などなども、
  〈見えるもの/見えないもの〉
という区別の、>>後者<< に位置づけられているわけなのでした。
ところで、私が常々、現象学者に一度は小一時間問いつめてみたい、 と思っているのは
   お前ら「機能するfungieren」って言葉で、何をいったことになってるつもりなのよ?
というベタな問いだったりするのですが。
[0207]
This leads to the conclusion that parts of the world (or for that matter of any unity) have higher reflective potential than the unity itself (which may have none). This is definitely not a "holistic" approach. It is not a dialectical theory in the Hegelian sense, which ends with the "absolute spirit" that itself is nothing but a paradox, namely an entity excluding only exclusion. But it is in a sense a reconstruction of deconstruction.
このことから世界(あるいは、さらにいえばあらゆる統一の部分*)の部分は より高度な潜在的反省力**を、(それを全く持っていないかもしれない)統一それ自体よりも持っているという結論が導かれる。
角田:
* for that matter of さらにいえば
**フランクフルト学派の訳だと、「反省的ポテンシャル」とかなりそうですが。
酒井:
このネタは「意味」論文in『論争』とかにも出てきます。 ‥‥が、いまいちなにゆってんだかわかりません(w
これは「全体論的holistic」なアプローチなどではまったくない。 これは、それ自体がパラドックス以外の何物でもない「絶対精神」、すなわち排除のみを排除する実体に最後は行き着くヘーゲル的な意味での弁証法理論ではない。 そうではなく、ある意味において、脱構築の再構築=改造なのだ。(021022)
[0208]
It is the wisdom of Greek and Roman rhetorics, flourishing again in the sixteenth century, that grants paradoxes the function of stimulating further thought. The normal "doxa" is questioned by a para-doxa, and then you have to make a decision. Whereas the medieval techniques of quaestiones disputatae (points of disputation) relied on authority to decide between opposed opinions, with Ockham, and then with the printing press, authority itself became questionable. The opposed opinions were reformulated as paradoxes,23 and the issue was left open. Finally, religion was divided at its institutional level, and the wars about truth began.
23. See Erasmus, In Praise of Folly, or Thomas More, Utopia; then Ortensio Lando, John Donne, and many others. A monographical account is given by Colie 1966.
パラドックスにさらなる思考を刺戟するという機能を授けた=認めたのは、16世紀に再び花開いたギリシア・ローマの修辞術[弁論術?*]の智恵である。
角田:
強調の非人称構文ととりました。
酒井:
* 16世紀でrhetoricsといえば、真っ先に思い出されるのはヴィーコの名ですが、ここで〈クリティカ/レトリカ〉という区別が考えられているのだとすれば、訳語は「修辞学 (術)」でいいのかな、とも。
#じゃ、ギリシャやローマはどうなるんだ、とも。
通用している >doxa<[ドクサ=意見=憶見*]が >para-doxa<[外れたドクサ*]によって疑問に付される。そうすると、決定を下さなければならなくなるのだ。
角田:
* イタリックではないということは英単語として使われているということですよね。
酒井:
「ドイツ語版」みたら、そこでも >doxa< >para-doxa< 表記になっているので、「外国語」扱いにしときますか。
questiones disputatae*(論争点)という中世の技術は、対立する意見**間で決定するために権威に頼ったが、オッカムとともに、さらには印刷機とともに、権威それ自体が疑義可能なものになってしまったのである。
酒井:
*「questiones disputatae」は、定訳あるのでしょうか。識者の方、ご教示よろしくお願いします。
角田:
** opinion=doxa
対立する意見はパラドクスとして再定式化され、問題は開かれたままにされた。
23 エラスムス『痴愚神礼賛』、あるいはトマス・モア『ユートピア』を見よ。それからオルテンシオ・ランド、ジョン・ダン及びその他多くの人々。Colie 1966によってモノグラフ的な説明が与えられている。
遂には、宗教は制度的なレヴェルにおいて分割され、そして真理を巡る戦争が開始された。(021023)
[0209]
Today logicians say that tautologies and paradoxes need unfolding -- that is, they have to be replaced with stable identities. In one way or another one has to find distinctions that protect from the error of identifying what cannot be identified. But distinctions again become visible as paradoxes as soon as one tries to observe their unity. Unfoldments, then, are the result of unasking this question. This means that one has to observe the observer to see when and why he takes the risk of an unfoldment -- of a deconstructible unfoldment.
こんにち論理学者たちは、トートロジーとパラドックスは展開される必要がある──すなわち堅固な恒等式によって置換されなければならないといっている。
酒井:
* 〈畳み込み/展開〉という術語はありますが、それがここでの用語法に一致しているのかどうか、私にはわかりません。
どうにかして、同定不可能なものを同定してしまうという誤謬からまもってくれる[誤謬を回避してくれる]諸区別を見つけださなければならないのだ。 しかし、それらの統一を観察しようとするや否や諸区別はまたもや可視的になってしまう。 したがって[パラドクスの]展開とはこの問い*を問わないことの結果なのである。
角田:
*「この問い」=パラドックスを導くような問い?
酒井:
前の段落には「対立する意見はパラドックスとして再定式化され、問題は開かれたままにされた。」という文がありますが。。。。
これ*は、観察者がいつ、なぜ展開という──脱構築可能な展開という──リスクを取るのかを理解するためには観察者を観察しなければならないということである。(021024)
角田:
*「展開とはこの問いを問わないことの結果」であるということ。
角田:
これだと、何も言っていないに等しいのですね。観察者を理解するためには観察者を観察しなければならないなんて。或いは、
これは観察者を観察すれば、観察者がいつ・なぜ展開という──脱構築可能な展開という──リスクを取るのかがわかるということである
にした方がいいのかとも思いますが。
酒井:
わかりませーん。でも後者の文は、主張として強すぎますねぇ。 ひょっとして
「いつなのか?なぜなのか?」を知りたいのなら、
××××のほう-をじゃなくて、観察者のほう-を、
観察しないとだめだ
という文なんでしょうか? だとしたら、××××ってなに?
[0210]
3. This may suggest, and correctly so, that the distinction between a paradox and its unfoldment is itself a paradox. We keep in mind that deconstruction itself can be deconstructed.) Given this dead end, only time can help. Time can teach us that there is no end; everything goes on, and systems continue to operate as long as they are not destroyed. Spencer Brown's calculus of forms is strictly temporal, is a time-consuming program of building up complexity. In his terms, one can cross the boundary of any form (=distinction) and reach the other side. But this requires a next operation. If the other side is the unmarked space, you can do nothing but return. But thereby you obey the law of cancellation. If you come back, it is as if nothing has happened. But if, crossing the boundary, you try to find something specific, the other side will again be a distinction severing the unmarked space, reproducing the world as an unobservable entity. You defer the problem, and that seems to be what Derrida means by diffe'rance. If we start with the form of nature and cross its boundary with a specific intent, what do we find? Perhaps grace, which presupposes new distinctions, such as grace/work, grace/justice, grace /creation of order. The other side may be civilization; it may be technology; and we will feel the need for further distinctions such as civilization /culture, or tight coupling (technology) and loose coupling. The other side can be specified in several distinct ways. One can choose, at certain times, a religious or a secular context. Such possibilities of antonym substitution may be used to adapt the semantical structures of a society to changes in social structures.24
24. See Holmes 1987 on the political liberalism of the eighteenth century.
このことは、パラドックスとその展開との区別がそれ自体パラドックスであることを示唆しているかも知れない。そして、まさにその通りなのである。 (脱構築それ自体が脱構築可能であることに留意しよう。) この袋小路で、助けになりうるのは時間だけである。 時間は我々に終わりなど存在しないことを教えることができる。つまり、すべては継続=経過する。そして、破壊されない限りは、システムは作動*し続ける。
酒井:
* 「作動」と「操作」で訳語がチャンプルですが、仕方ないか。
角田:
日本語で操作するというのは他動詞であって、自動詞としては使えないということです。この場合、「操作する」っていっても、何を操作するのと言う「何」がないわけで、あしからず。
スペンサー・ブラウンの形式算術は厳密に時間的なものであり、時間を費やして複合性を造り上げるプログラムなのである。 彼によれば、いかなる形式(=区別)の境界も横断し、別の側に達することができる。 しかし、このためにはそれに続く操作が必要とされる。 もし別の側がマークされざる空間*なら、戻るしかない。
酒井:
* 昨年講読していた『社会の芸術』(1995)では──スペンサーブラウンの述語からはみ出し──〈マークされざる状態/マークされざる空間〉という区別が導入されていましたね。そういえば。
しかし、そうすることによって、無化*の法則 に従っていることになる。
酒井:
*ですね。 「ルーマンフォーラム風」表記を使えば、 〈〈 〉〉= .
戻ってきたとしても、あたかも何事も起こっていなかったかのようである。 しかし、境界を横断して、何か明確なものを見出そうとすると、別の側は再度マークされざる空間を分断する区別となり、世界を観察不可能なものとして再生産してしまうだろう。
酒井:
「無化」といっても“何も起きなかった”のとは違うでしょ、とおっしゃりたいようです。
問題は遅延される。そしてそれが、デリダが différance によっていわんとしていたことのように思われる。
酒井:
「無化」が生じるにも“時間はかかってる”でしょ、とおっしゃりたいようです。角田さんが示唆していましたがルーマン先生は、このあたりからフッサールの反省のパラドクスに接続し、「生き生きした現在(の謎)」のテーマ圏に接近したいのだ思われます。
が、ここではやってません。
角田:
ここら辺は、寧ろフッサールだと、地平の無限性に関する議論を思い出していました。
[たとえば]自然という形式から出発し、ある特定の意図をもってその境界を横断するとしたら、何が見出されるのだろうか。 たぶん恩寵[が見出されるだろうが]、これは恩寵/働き*、恩寵/正義、恩寵/秩序の創造といった[また]新たな区別を前提としている。
角田:
*これは神学的な救済の条件で、人間の自力的な働きを救済の条件として認めるか否かというのがカトリック/プロテスタントの争点であったわけです。
自然にとっての区別の]別の側は 文明[化] かも知れないし、テクノロジー かもしれない。そして、我々は文明[化]/文化、あるいは きついカップリング*(テクノロジー)と ゆるいカップリングといった、さらなる区別の必要を感じるだろう。 別の側は幾つかの明瞭な[識別可能な]仕方で特定化されうるのだ。
角田:
これはリダンダントなセンテンス。specifyは明確化とも訳せるわけですし。
酒井:
ルーマンらしい、ともいいます。
時に応じて、宗教的な文脈か世俗的文脈かを選択することができる。 こうした反意語による代替* の可能性は、社会のゼマンティーク**を社会構造の変化に適応させるのに使われるかも知れない。(021025)
24. Holmes 1987 の18世紀政治的自由主義論を見よ。***。[英訳
酒井:
* der Substituion anderer Gegenbegriffe ‥‥ 「ドイツ語版」では、イタリックになってない***。
** 「the semantical structures of a societyってなんだこりゃ?」と思って 「ドイツ語版」をみたら、 ‥‥やっぱ die Semantik der Gesellschaft でした。。 これ、ほんとにルーマン自身が書いた「英文」なんだろうか?──とちょっと不安がよぎったりする。。。
*** 「ドイツ語版」では、注24中に Siehe zu >antonym substitution< im politischen Liberalismus... と鍵付きイタリック(→「外国語」扱い?)で御登場。
[0211]
4. Within the theory of empirical systems, we can observe a similar trend to "temporalize" problems of identity and stability, and to replace theories of structural stability with theories of dynamic stability. Structuralism presupposed that systems need structures to limit the range of possible changes. Structures, then, seem to differentiate between fast changes(short waves), slow changes (long waves), and destructive changes (catastrophes). But contrary to a hidden assumption of structuralism, the only component of a system that can change is its structure. So if we focus on the form (= distinction), what is the other side of this form?
経験的システムの理論の内部において、我々は同一性と安定性の問題を「時間化」し、そして構造的安定性の理論を動的安定性の理論で置換する同様の趨勢を観察することができる。 構造主義*は、システムが可能な変化の幅を限界づける構造を必要としていることを前提にしていた。
角田:
*この「構造主義」が何を意味しているのかは議論に値するかも知れません。ルーマンにとっては、完全な機能主義とは言い難い構造-機能主義?
ともかく、小田さんは異議を唱えるでしょう。
酒井:
現象学=構造主義、でしょうか(^_^)。
#その場合、「変化の幅」は、「自由変更の幅」か(?)。
あんまり議論しても仕方ないような気も(w
ルーマンが「まとも」な構造主義批判をしてるとこは、私みたことないです。
#初期の『啓蒙1』とかにおけるアルチュセール的構造主義の批判とかはここでは関係なさそう(?)だし。
そうすると、構造は早い変化(短期波動)、ゆっくりとした変化(長期波動)及び破壊的変化(カタストロフ)とに分化していくように思われる。 しかし、構造主義の隠された前提とは逆に、システムの変化しうる唯一の構成素*はその構造なのである。
酒井:
* M&V的術語として登場しているのか、と。河本訳に従いました。ルーマンの著作中では、普通 Element で登場してるかと思いますが、今の場合「独語版」では、Systemkomponent, Komponent と、そのまんま。
しかしこの文、どういう意味ですか? ──構成素は構造である? (゚Д゚)ハァ?
そこで、我々が形式(=区別)に焦点を合わせたとして、この形式の別の側というのは何なのだろうか。(021026)
[0212]
On the other side we find events or the operations of the system. Events (and this includes operations) cannot change because they have no time for change: they disappear as soon as they appear, they vanish in the very process of emerging.25 So again, one of these cheerful paradoxes: the only unchangeable components of systems are inherently unstable.
25. The time-length of an event in the sense of its specious present remains, of course, an open question. But this has to be decided by an observer or by observing the observer. If the observer concedes enough time for changes (e.g., observing the German reunification), he is in fact observing not an event but a structure (which includes a structured process).
[それとは]別の側には、我々は出来事あるいはシステムの操作=作動を見出す。 出来事たち(そしてこれは操作を含むのだが)は変化のための時間を持たないので変化し得ない。顕れるや否や見えなくなってしまうし、 出現=創発するまさにその過程において消失してしまうのだ。
25. 勿論、見かけ上の現在(specious present)という意味における出来事の時間の長さは[依然として]開かれた問いのままである。
しかし、このことは観察者によって、あるいはその観察者を観察することによって確定せられる。
角田:
これは不定冠詞が定冠詞に変わるそのロジックを例示する英文法の授業にはうってつけの例文だろうと思います。
酒井:
先生わかりませーん!
ところで「this*=このこと」ってなんですかね? オペレーションという出来事について、二次の観察によって、何が確定される?
もし観察者が変化のための十分な時間を是認するとしても、(例えば、ドイツ再統一を観察するとして)、実際彼は、出来事をではなく(構造化された過程も含む)構造を観察していることになるのである。 そして再び、こうした愉快なパラドックスの一つ[をお目にかけよう]: ──本質的に不安定であるもののみがシステムの不変の構成素なのである*。(021027)
角田:
*主語と補語が逆になってしまいましたが、意味としてはそんなものだろうと思います。
[0213]
Systems, therefore, have to use their operations to be able to continue to use their operations to be able, et cetera. This is, roughly, What has been called, following Humberto Maturana, autopoiesis.26 Autopoietic systems are the products of their own operations. They have properties such as dynamic stability and operational closure. They are not goal-oriented systems. They maintain their autopoietic organization of self-reproduction as long as it is possible to do so. Their problem is to find operations that can be connected to the present state of the system. In this sense they are what Heinz von Foerster would call nontrivial machines or historical machines. They use Self-referential operations to refer to their present state to decide what to do next.27 They are unreliable machines, to be distinguished from trivial machines that use fixed programs to transform inputs into outputs. Autopoietic systems rely not on tight coupling but on loose coupling to move from one state to the next, and this makes it possible for them to evolve into different structural types according to random links between the system and its environment. They do not use cognition as a technique for adaptation and survival. Their environment is much too complex and nontransparent. But they develop, by evolution and learning, cognitive capacities for temporary adaptation to temporary States of the environment. And this makes it possible for them to have memory, which is the capacity to delay the repetitive use of forms.
26. See the collection of papers published in German in Maturana 1982, and also Maturana and Varela 1984.
27. This comes very close to an unorthodox theory of decision making, proposed by Shackle 1979.
したがって、システムは自らの作動を使用しなければならないが、それは自らの作動を使用し続けることが可能であるためであり、さらにそれは[自らの作動を使用し続けることが]可能であるためであり、後略。 これが、大まかにいえば、ウンベルト・マトゥラーナに倣って オートポイエーシスと呼ばれてきたことである。
26. Maturana 1982に所収のドイツ語で刊行された論文集成を、またMaturana and Varela 1984も見よ。
オートポイエティック・システムは自らの作動の産物である。 それは動的安定性や作動的閉鎖といった特質を持っている。 それは目的*-指向的なシステムではない。 それは、そうすることが可能である限り、 その自己-再生産のオートポイエティックな有機構成*を維持している。
酒井:
* 河本訳に従いました。
オートポイエティック・システムにとっては、そのシステム[自ら]の 現在の状況に接続可能な諸作動を見つけることが問題になるのである。 この意味においては、それはハインツ・フォン・フェルスターなら トリヴィアルでない機械あるいは歴史的機械と呼ぶだろうものである。
酒井:
こういう発言をベタに真に受けないようにしましょう。
それは自己準拠的な作動を、自らの現在の状況を参照し、 次に行うべきことを決定するために使用している。
27.これはShackle 1979によって提起された非正統派の意思決定理論に極めて近い。
オートポイエティック・システムというのは当てにならない機械であって、入力を出力に変換するのに固定的なプログラムを使用するトリヴィアルな機械からは区別されるべきものである。 それは、ある状態から次の状態に移動するために きついカップリングにではなく、ゆるいカップリングに依拠している。 そしてこのことによって、そうしたシステムが システムと環境とのランダムな繋がりに応じて、さまざまな構造的タイプへと進化することが可能になっているのである。 それは適応や生存のための技術として認知を*用いているわけではない。 その環境はあまりに複合的すぎ かつ不透明である。 しかし、オートポイエティック・システムは、進化と学習によって、環境の時間的状態[その時々の状態]へ時間的に[時に応じて]適応するための認知能力を開発*するのである。
角田:
* 写真の現像のように、潜在性を現実化するというか。潜在的なものを開き-発すという意味で。そもそも仏教用語の「開発」は潜在的な仏性を開き-発すという意味かと。
そして、これによって、それが、形式の反復的使用を遅延する能力である記憶を持つことが可能になるのである。(021028)
[0214]
5. A system that can observe may have the capacity to observe itself. To observe itself it has to distinguish itself from everything else, that is, from its environment. The recursively interconnected operations of the system draw a boundary and thereby differentiate system and environment. The operation of self-observation requires a reentry (in Spencer Brown's sense) of this difference into itself, namely the operation of distinguishing system and environment within the system. (This is another way of saying that a part of an entity may have higher reflective capacities than the entity itself.) In this sense, all conscious systems and all social systems use the distinction between self-reference and external reference as an invariable structure of their own observations. This is a well-known assumption of the classical theory of the (conscious) subject that knows that it does the knowing in all its operations. But the same holds true for all communicating systems and in particular for the societal system. Communication requires the concomitant distinction between information and utterance, between constative and performative aspects of its operation. And understanding means nothing but observing the unity of this distinction.
5.観察することができるシステムは自らを観察する能力を有していることがある。 自らを観察するには、自らを他のすべてのものから、すなわちその環境から区別しなければならない。 システムの回帰的に連結された諸作動が境界線を引き、それによって、システムと環境を分化させるのである。
酒井:
たぶん「河本風ルーマン批判」が出てくるのは、このテ↑のルーマンの「分化」規定を、「読んだことがない」からなんでしょうね。
と想像してみる私。
自己観察という操作*はこの差異の自らへの(スペンサー・ブラウンのいう意味での)再参入、つまりシステム内部で システムと環境を区別するという操作を要請する。 (これは、あるモノの一部がそのモノそれ自体よりも 高度な反省能力をもつことがあるということの言い換えである。) {or(これは、あるモノの一部がそのモノそれ自体よりも 高度な反省能力をもつことがあるということを別の仕方で述べたものである。)} この意味において、あらゆる意識的システムと社会的システムは、自己準拠と外部準拠*の区別を自らの観察の不変的構造として使用している。
酒井:
* これもまだ定訳のない術語。他者準拠?外的準拠?
#「外部準拠」は新提案です(w>角田さん
問題は詰まるところウマイ対比ができないところにあるような気も。
  自己準拠←→他己準拠(日本語か)?
  他者準拠←→自者準拠(日本語か)?
  外的準拠←→内的準拠(はマズイだろ)?
  外部準拠←→内部準拠(もマズイだろ)?
こんなときに偉大なるアメリカ社会学の父・我らが親愛なるタルコット・パーソンズ先生がゐてくれたならなんかウマイ術語をまたでっちあげてくr[略]
これは、主観=主体*がそのすべての操作=能作**において知るということを行っているという、古典的な、知る[主体であるところの](意識的)主観=主体の理論のよく知られた前提である。
角田:
*ここでは「主体」の方がいいような気もするのですが、態度はまだ決定不能。
酒井:
**現象学業界慣習に従えば、「能作」
しかし、これはコミュニケートするあらゆるシステム[=社会的システム]についても、 特に社会システム{=ゲゼルシャフト}システムについても同様に真である。 コミュニケーションにおいては、情報と伝達**の区別、 [すなわち]その作動の事実確認的側面と遂行的側面の区別が 随伴することが要請される。
角田:
2つのbetweenは同格ととりました。
*また、随伴ですが、区別がコミュニケーション随伴するということですよね。
酒井:
そうすね。「ドイツ語版」では、die mitlaufende Untersheidung
このヘンは言葉のアヤつぅ気もしますが。「コミュニケーションは区別だ」っていえるし、「コミュニケーションは区別の統一(というか総合?)だ」ともいえるので。それに区別がコミュニケーションと“別の所”にある訳じゃないですしねぇ。
** ここは業界慣習にしたがいました。utterance=Mitteilung の訳語はいつも「なんかもっといいのないのか?」と思うところですが、思いつかないです。  通常は「発話」を使うところですが、それだと非言語的コミュニケーションが入らなくなっちゃうので。ルーマンの訳語としてはまずい、と。
ルーマン的コミュニケーション概念の定義は、やまと言葉でいうのは簡単で(w
   〈のべる/しめす〉-を-わける(=わかる)
ということなわけですが。あるいはまた〈say/show〉とか。(英語だと「わかる」はなんでしょうね?)
そして、理解とは、この[情報/伝達という]区別の統一を観察する以外の何ものも意味しないのだ。(021028)
[0215]
But a reentry is a paradoxical operation. The distinction between "before" and "after" the reentry is the same and not the same. This shows that time (that is, the temporal distinction of an observer) is used to dissolve the paradox. And it shows also that a theory of the mind (the conscious subject) and a theory of society ultimately have to be founded on an unfolded paradox.
しかし、再参入とはパラドクシカルな作動だ。 再参入の「前」と「後」との区別は同かつ不同である。
角田:
the distinctionが邪魔で、それがなければ、
再参入の「前」と「後」は同じであり、かつ同じではない
ということで、一応分かることは分かるのですが。つまり、以前の節にあった戻った場合あたかも何事も起きていなかったの如きではあるが、実は……というのと同じことということで、分かるのではありますが。
(cf. 次のセンテンス)。
酒井:
んー・・・ わからんです。たとえば、
或る区別は──再参入前も再参入後も──同じであり違いもする
というようなこと、つまり、
「再参入(≒区別の反復使用)」における、「参入前の区別A」と「参入後の区別A」とについて考えてみると、これは
或る意味では【同じ区別A】だといえるが、
また或る意味では【異なる区別A'】だともいえる
というようなことだったら「わかる」んだけど、
これだと、なにもいってないけど正しくはあるだろう、って感じで
でもこうは読めないですもんねぇ。。。
これによって示されるのは、時間(つまり観察者の時間的区別)がパラドクスを解消するために使用されているということである。 そして、このことはまた、心*(意識的主体)の理論と社会の理論*が、最終的には、展開されたパラドックスに基づけられるべきことをも示している。(021029)
角田:
* 今気づいたのですが、mindには定冠詞がついていて、societyには何もついていない。
それから、ルーマン的には、theory というものは、ethnomethod も含むものなのでしょうか。
酒井:
どう思いますか?>みなさん
私自身は「当然含む」と考えてますが、ルーマン自身はなんていうでしょうね?
でもそれじゃ(method ならぬ)ethno-theory~folk-theory か
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