socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
掲載開始:021023
最終更新:021024

[0108] 検討

Date: Thu, 10 Oct 2002 21:57:40 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04041] 脱構築という二次的観察 [0108]
for the integration of ontology (for more than one subject) and logics(with more than two values).
成功したかどうかはともかくとして、(一つ以上の主体=主語のための)存在論と(二値以上の)論理学の統合のための
            ↑
成功したかどうかはともかくとして、(二つ以上の主体=主語のための)存在論と(三値以上の)論理学の統合のための
Date: Thu, 24 Oct 2002 03:20:07 +0900
From: 角田幹夫
Subject: [luhmann:04157] Re: 4155 [* ∀*]0108 検討!
more than oneは >1 でした。
≧1だと、one and moreでした。
Date: Thu, 24 Oct 2002 10:26:12 +0900
From: 酒井泰斗
Subject:[luhmann:04161] 4158/55[* ∀ *]0108 検討!
ご指摘どうもありがとうございました。
修正しておきました[]。
Date: Mon, 7 Oct 2002 14:53:19 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04021] [ ・∀・ ]0108
This comes very close to Derrida's attempt to transcend the limitations of a metaphysical frame that allows for only two states: being and nonbeing.
これ[超言的操作]は、二つの状態、つまり存在と非在*しか許容しない形而上学の限界を乗り越えようとするデリダの試みに極めて近い。
角田さんコメント:
* サルトルの『存在と無』を思い出したのですが、こちらの英題はBeing and Nothingnessでした。

同様に『存在と時間』は "Being and Time" ですが、これ、私にはすごい違和感あるんですけど。。。――だって、being ってどっちかいうと「存在者」のほうじゃないの? 英語ではほかに表現のしようがないのかしら?
"To be and Time" は異様な英語?
Date: Thu, 10 Oct 2002 22:14:37 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04042] 脱構築という二次観察 [0108]での脱構築観へ寄せて
この書はルーマンの脱構築観がダイレクトに現れていて、また、この箇所で特にそれがはっきりしているのではないかと思い、とても興味深いところです。で、
ここでの記述を見ますと、ルーマンは脱構築を二次的観察として見てある程度評価している。またゴットハルト・ギュンターの超言の作動はシステムが一次観察から二次的観察に移行すると不可欠になるとしている。そして、超言的作動の二次観察性の方が脱構築の二次観察性よりも、より高次の複雑性をそなえた論理構造に向かおうとしているからというこで、評価しているようです。
このとき、
Date: Fri, 11 Oct 2002 04:20:23 +0900
From: 角田幹夫
Subject: [luhmann:04049] Re: [ ・∀・ ]0108
酒井さん曰く、
同様に『存在と時間』は "Being and Time" ですが、これ、私にはすごい違和感あるんですけど。。。――だって、being ってどっちかいうと「存在者」のほうじゃないの? 英語ではほかに表現のしようがないのかしら? "To be and Time" は異様な英語?

 そういえば、Yesには_Time and Word_というアルバムがあったのだ。
 「存在者」の方は小文字のbeingのようです。因みに、英和辞典によれば、大文字のBeingは存在、有の(多分スコラ哲学以来の)定訳のようです。また本質=存在。さらに、これに定冠詞がついて、the Beingになると、「神」になる。
 私は"To be and Time"にはあんまり違和感を感じませんけど、このMLには英語のネイティヴ・スピーカーの方はいらっしゃるのでしょうか。まあ、そもそも英語では動名詞と現在分詞が区別されないというのが悪いのでしょうけど。

 ところで、司馬春英「現象学と大乗仏教」(『思想』916)を読んでいると、存在論的差異を巡る思考が「発出論的形而上学への退行」、すなわち「自ら身を隠す項を、差異化の機能に先立つ先-差異的一者と見做す過誤」、「差異項を無差別的一者から分節されたものと見做す傾向」(p.276)に陥る危険が語られているのですが、どうしてもハイデガーも、その「退行」に填っているんじゃないかという感が拭えないのですけど、如何なものでしょうか。つまり、存在が主語として立てられた時点で、既に「自ら身を隠す」どころか、「差異化の機能に先立つ先-差異的一者」としてふんぞり返ってしまうのではないか。これはたんなる私の印象ですが。
Date: Wed, 23 Oct 2002 22:44:38 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04153] [* ∀ *]0108 検討!

Sさん@4042:
●二次観察と脱構築が通底すると見るとしても、脱構築が批判の対象とする再自己固有化運動への目というものを、ルーマンは持たないのではないだろうか?

???
どうしてそう思いますか?
 #あと、Sさんの謂う「論理的」ってどういうことでしょう。。。。?

ところで私の短くもない人生で出会った方々を想起してみると、「ルーマン読み」な人と「デリダ読み」な人とでは、「再自己固有化運動」への繊細な目を持っていらっしゃる方は、圧倒的に前者のほうに多いけども。
まぁこれは関係ないか。
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