socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
掲載開始:021019
最終更新:021022
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[0106] 検討

酒井
邦訳では、p51-2 のあたり。
デリダ『ポジシオン』
クリステヴァ:
言語がつねに何らかの「表現」であり、そういうものとしてその囲いが明示されるとすれば、そうした表現性が、どのような限りにおいて、またどのような型の実践によって、超出されうるのか。どのような限りに置いて、非-表現性は記号作用を行うものであるのか。グラマトロジーは、言語学的表記法よりもむしろ論理学的・数学的表記法に基づく非-表現的「記号学」であるのではないか。
デリダ:
[‥‥]
 あなたの質問の最後の部分は、さらに一段とむずかしい。ロゴス中心主義とフォーネー・ロゴス主義が形而上学および古典的な諸種の記号学的・言語学的企てを支配してきたかぎりで、論理学的-数学的表記法に反対しての故意の言い落しが、それどころか抵抗が、つねにこの両主義の署名であったことは明らかである。数学的・非-音声的エクリチュール(例えば、ライプニッツの「記号法」の企て)に対するルソー、ヘーゲルらの批判は、偶然的でない仕方でソシュールにも見いだされる。ソシュールにおいては、その批判が自然的言語[ラング]に対する偏愛の宣言と肩を並べている(『言語学原論』57ページ参照)。したがって、グラマトロジーがこうした予断体系と手を切るとすれば、実際それは言語の数学化を解放しなければならないだろうし、また、「科学の実践は、事実上は、ロゴスの帝国主義に異論を唱えることを決してやめたことがなかった。それは、例えば、ずっと以前から、そしていよいよますます非音声的エクリチュールに訴えることによってである」ということをも、はっきりと認めねばならないだろう。ロゴスをフォーネー〔声〕につねに結びつけていたすべてのものが、実は数学によって制限されていたのであり、数学の発展ほ、非-音声的な書きこみ[アンスクプシオン]の実践と絶対に連帯している。こういう「グラマトロジックな」原理や課題に関しては、少しも疑いの余地がないと私は思う。それにしても、これまでエクリチュールから取りあげられていた諸領域をエクリチュールに 効果的に 奪い取らせたいと、ともかくそう望むのであれば、数学的表記法の拡張、そして一般にエクリチュールの形式化の拡張は、ごく緩慢かつ慎重でなければならない。「自然的」諸言語[ラング]を用いての「自然的」諸言語[ラング]に関する批判作業、古典的諸表記法の全面的な内的変形、「自然的」諸言語[ラング]と「自然的」諸エクリチュールとの諸種の交換の組織的実践、こういったことがそのような形式化を準備し、同伴しなければならないと私は思う。これは果てしない課題である。なぜなら、自然的諸言語と非-数学的諸表記法を絶対的に解消してしまうことは、諸種の本質的理由から、つねに不可能であるだろうから。それにまた、形式主義と数学主義の「素朴な」側面にも用心しなければならない。というのも、忘れてならないが、形式主義や数学主義の二次的な諸機能の一つは、他方ではこの両主義が否認することもできたロゴス中心主義的神学を、形而上学においては補完し補強する、ということであったのだから。だからこそ、ライプニッツにおける数学的・非-音声的な普遍的記号法の企ては、単純なものの形而上学から、したがって神的悟性、神的ロゴスの現実存在の形而上学から分離しえないのである。
 それゆえ、数学的表記法の効果的な発達は、形而上学の脱構築とあいたずさえて進むのであり、また数学そのものの底深い刷新、およびつねに数学を模範としてきた学問の概念の底深い刷新とあいたずさえて進む。
Date: Wed, 9 Oct 2002 22:44:23 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04037] Re: [ ・∀・ ]0106
角田:
selfはシステムそれとも区別?
酒井:
んー。どっちでしょー???

これは、区別しかないと思います。区別が区別を規定する、ということになりますが、コミュニケーションがコミュニケーションする、という場合に通ずるルーマンの独自表現なのではないでしょうか。
Date: Sat, 19 Oct 2002 23:15:54 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04122] [ ・∀・ ]0106ケントウ!
Sさん:
これは、区別しかないと思います。区別が区別を規定する、ということになりますが、コミュニケーションがコミュニケーションする、という場合に通ずるルーマンの独自表現なのではないでしょうか。

【原文】
In the case of autopoietic (that is, self-reproducing) systems, this would mean that an observer has to focus on the self-determined and self-determining distinctions a system uses to frame its own observations.
【現行訳】
オートポイエティックな(つまり自己-再生産する) 諸システムの場合、以上のことは、観察者が、 システムが自らの観察を枠づけるために使用する、 自らが*規定され、かつ自らが*規定*する 諸区別に 焦点を合わさなければならない、ということを意味するだろう。
上文中の「以上のことは」の指示先はこの↓、前の文でした。
マークは、区別を為す観察者として観察されうる。換言すれば、いかなる類の観察するシステムも、‥‥、そのシステムが使用する区別によって規定されるものとして 記述可能なのである。

これ、話としてはいわゆる「反照規定」((c)ヘーゲル)ですよね。つまり、
●観察者が〈或るもの〉を〈或る仕方〉で規定するとき
●同時に・逆に、その観察者のほうも、その〈或る仕方〉によって規定されてしまっている
という。
 #ここでは、その〈或る仕方〉が、〈或る区別〉に取り換えられているわけですけど。
すると、件の文は(私にとって)ワカリヤスくは、こう書き換えられそうです:
こうした反照規定性を鑑みると、
二次の観察者が 一次の観察者 を観察するときには、
一次の観察者 が用いる諸区別のほうにこそ 焦点を合わさなければならない、
ということになる。
と。
で、この「自らが*規定され、かつ自らが*規定する[区別]」という修飾的挿入は、まさにその反照規定性を分解して述べている文だと考えられそうです。すなわち: 
●システムがそれよって(何かを)観察=規定する、その区別 ──と、
●その使用によりシステムが(どんなものだか)規定されてしまう、その区別

なので結局は・・・話はどうなるのかな?(^_^;)
Date: Mon, 21 Oct 2002 00:59:20 +0900
From: S
Subject: [luhmann:04126] Re: [ ・∀・ ]0106ケントウ!
酒井泰斗 wrote:
これ、話としてはいわゆる「反照規定」((c)ヘーゲル)ですよね。

システムが自分とは違う何かを規定する主体だとすると、そういう反照規定性を考える必要が出て来るでしょうが、私が考えるのは、(規定する主体を差異だと考え、)
自己差異化という運動は結果としての差異という自分を生み出し規定し、結果としてのその差異は、運動としての自己差異化によって生み出され規定されている。
というようなことです。
Date: Mon, 21 Oct 2002 10:55:39 +0900
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:04129] 4126 島村 : [ ・∀・ ]0106ケントウ!
Sさん曰く:
システムが自分とは違う何かを規定する主体だとすると、そういう反照規定性を考える必要が出て来るでしょうが、私が考えるのは、(規定する主体を差異だと考え、)

言いたいことはわかるような気もするのですが、私が避けたいと思っている方位でもあるような。
というか、私は「システム」も「差異」も、“主体”だとは考えてないです(^_^)。
それに「主体」ってなんのことだかよくわからないし。
「システム」というのは「差異に接続する差異」のことなので、 どっちも──システムも差異も──「主体」じゃないと思います(^_^)。
そうはいっても、ここには程度の問題もあるし──たとえば「自己反省できる」ようなシステム水準と、オートポイエーシス or 基底的自己準拠の水準は同列には論じられないでしょうし──、あと、「主語を立てるのが困難であるような事態-を-どのように-語るか」という修辞問題もあるでしょうし。

オートポイエーシスの定義*は、右図の状況が (それ自体)統一体として実現されていること なわけですが‥‥ Sさんの言いたいことは、この〈要素/ネットワーク**〉の区別***を「しないで済ませるべきだ」ということなのだと思います。
これを進めると、西田とかに典型的であるような──あるいはある種の現象学者がたどりついたような──「場所の論理」のほうへ向かうことになるのだろう、という気がしますけど。それはそれで、確かに一つの道ではありましょう。

* のうち、ルーマンが受け入れ・使っているもの。マトゥラナ&バレラの定義にはこのほかに位相的規定性とか「実空間」内への(=物質-を伴う・-に担われての)実現などなどが含まれています。──そのために、たとえばバレラは「社会システム」に対してオートポイエーシスというカテゴリーを適用することを拒絶したのだと思います。
** 構造といってもいい。「構造」というのは──右図に“含まれて”いる問い****のうち──
>>この或るもの<< が 当該システムの要素Element だといえるのは、どのようにしてなのか?
という問いに対する 答えとして記述されるだろうもの のことなわけなので。
*** ところで、マトゥラナ達の「構造的カップリング」という概念を、ルーマンは後に、〈操作的カップリング/構造的カップリング〉というペアに取り換えたという話題が、以前ルーマン・フォーラムでも出ていましたが、私が想像するに
というのは、このテの話が出てくる論文・著作が、まだ邦訳されてない(ので私は読んでいない)からですが(w
この区別をなさねばならない──とルーマンが考えた──理由は、当然、 この論点=この区別に関係するんでしょうね。



ルーマンについて言えば、この方位は、或る程度受け入れつつも、どこかの地点で袂を分かっているのではないかなぁ、と私は思います。たとえば、『社会の芸術』第1章でも、「形式(~区別~観察)は、観察者として観察されうる」というスペンサー=ブラウン的テーゼが出てきますが、ひとしきり展開したあとで、「形式の理論は、それだけではまだシステム理論ではない」と捨てぜりふを残して、その場を立ち去っています。
 差異あるいは区別の「外」にシステムがあるわけではないので──また、システムが差異を「コントロールしている」わけではないので──、「システム」概念というのは確かに(特に基底的自己準拠のレヴェルでは)「余計なもの」に見えます。また、「物象化」された概念に見えます。
 ‥‥だから、もしも“物象化をどうやってでも避けたい”というのなら、確かに「システム概念」は使えません。 システム概念というのは、あくまで「物象化[~複合性の縮減≒選択の強制≒選択の偶発性]は避けがたい」という前提の上で、“如何に物象化するか・如何なる物象化を選ぶか”を考えるのにこそ役立つものでしょうから。
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