socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
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翻訳更新:021019
検討更新:021024

ニクラス・ルーマン「脱構築という二次の観察」01

Niklas Luhmann "Deconstruction as Second-Order Observing".

[0101]
The American discussion about deconstruction has reached its stage of exhaustion. By now deconstruction looks like an old-fashioned fashion.There was a time when one thought to use deconstruction as a method to analyze literary or legal texts, replacing older, more formal methods of revealing the immanent meaning of a text. At the same time, hermeneutics lost its stronghold in subjectivity and became a method of creating circularity and of putting meaning into a text in order to be able to find it there; it taught how to construct something new by reading old texts. However, hermeneutics retained the idea that interpretation had to penetrate the surface of an object (that is, a text) or a subject (in other words, a mind) to reach its internal depths where truth was to be found.6 It therefore retained the traditional idea of a boundary between the external and the internal that only Derrida dared to deconstruct.7 There were also available the Hegelian version of dialectical method and Peirce's semiotics, both of which aimed at transcending distinctions in the direction of a third position. Deconstruction, however, was designed, if it was designed at all, to be none of these. Deconstruction seems to recommend the reading of forms as differences, to look at distinctions without the hope of regaining unity at a higher (or later) level, or without even assuming the position of an "interpretant" in the sense of Peirce. Deconstruction seems to be adequate for an intellectual climate heading toward cultural diversity. But are there any firm rules and any hope for results in the deconstruction business -- that is, are there any framings that are not themselves deconstructible? Or would applying deconstruction lead only to reflexivity, recursivity, and self-reference resulting in stable meanings, objects, or what mathematicians call eigenvalues? It seems that there is only différance.
6. But see also the purely technical advice given by Hogarth 1955 to reconstruct the "inner eye" of an object by surface lines (preferring serpentine-like lines) and to match the internal surface and the external surface. See Glanville 1988, a collection of papers originally Published in English but available only in book form in German.
7. See Wellbery 1992.
脱構築についてのアメリカでの議論は消耗=枯渇の段階に達してしまっており、もはや{今となっては}オールドファッションな流行のようである。 誰もが脱構築を、テクストの内在的意味を暴く という古い・より形式的な諸方法に替えて、文学的あるいは法的なテクストの分析方法として使用しようと考えていた時もあった。 同時に*、解釈学は主観性のなかでその拠点を失い**、 循環性をつくりだす一つの方法、そして、 意味をテクストのなかに見出すことができるよう 意味をテクストに翻訳する{押し籠める}***一つの方法になった; つまり解釈学は、古いテクストを読むことにより新しいものを構成する やりかたを教えたのである。
角田:
*何と「同時に」なのでしょうか。
酒井:
「脱稿築普及」←→「解釈学凋落」ってことすかねー。
角田:
**「主観性に安全な居場所を求めることができなくなり」と読むことは可能でしょうか。
酒井:
意味としては、そんな感じすよねー
角田:
*** put....into....には、「書き付ける」という意味もあります。
しかしながら、解釈学は、“そこにおいて真理が見出されるべき内的な深処に到達するためには、対象=客体(つまり、テクスト)あるいは主観(換言すれば、心)の表面を突き破らなければならない”という理念を保持していた。 したがって、解釈学は外的なるものと内的なるものの境界という伝統的な理念を保持していたのであり、デリダのみがその理念を脱構築しようとしたのである。 [たしかに、内/外の区別を超えるということだけなら]弁証法的方法のヘーゲリアン・ヴァージョンやパースの記号学も──どちらも、諸区別を第三の立場の方向へ超越することを目指していたのであり──有効だった*。
角田:
*availableの訳し方は常に難しく、辞書を見ても、違うだろう、と常に思っているのですが。語感として、「そういうのもあるよ」あるいは「そんなんでもかまわない」というのがいちばんしっくりくるのですが、それは論文向きの言葉遣いではないし。で、いわんとしているのは、
内/外の区別を超えるということだけなら、ヘーゲル・ヴァージョンの弁証法的方法も、パースの記号学もあるんだよ。どちらも、区別というのを第三の立場という方向で超えようとしていたのだからね。
ということになるのでしょうけど、勿論これはパラフレーズであって、翻訳ではありません。
[しかし]脱構築によって目指されているのは──それがつまるところ目指されたものだとすればだが──これらのうちのどれでも無いことで在る*ことだったのである。
角田:
*何か日本語として通りが悪いです。
酒井:
通りの悪い感じを漢字で強調しときました
[つまり]脱構築は、諸形式を諸差異として読むこと、つまり、[ヘーゲルのように]より高い(あるいは後の)水準で統一を回復{=再獲得}するという希望なしに・あるいはまたパースの謂う「解釈項」の位置さえ仮定せずに区別をみること を勧めるようにみえるし、[だから]文化的多様性へむかう知的風潮に適っているようにみえる。 しかし、脱構築ビジネスには、厳格な規則、そして成果への望みがいくらかでもあるのだろうか?──つまり、それら自体は脱稿築可能ではないような「フレーム化作用」がいくらかでもあるのだろうか?
酒井:
「frame」じゃなくて「framing」なのは・・・? ちなみにあとでゴフマンの名も登場してるんですが
角田:
辞書的には差異なんかないということにもなりそうなのですが、差異/差延の区別を鑑みると、
 構築されたものとしてのframeは脱構築可能だが
 運動としてのframingは(それが失敗することを示す以外には)脱構築不可能
ということになり、取り敢えず「フレーム化作用」とでも訳しておいた方がいいのでしょうか。
さもなければ、脱構築を適用{応用}することは、安定した意味、対象あるいは数学者が固有値と呼ぶものをもたらす自省性、再帰性、自己言及しか帰結しないのだろうか。 [脱構築によって帰結するのは][差異ではなくて]差延しかないということのようだ。(020827)
[0102]
Derrida himself reacted to this discussion with well-studied amazement. In his "Letter to a Japanese Friend," he explains, "What deconstruction is not? Everything of course! What is deconstruction? Nothing of course!" commenting thereby on the presupposition of traditional ontological metaphysics and its logic according to which everything must either be or not be.8 Deconstruction, then, is deconstruction of the "is" and the"is not." Deconstruction deconstructs the assumption of presence, of any stable relation between presence and absence, or even of the very distinction between presence and absence. It is an unstable concept subject to an ongoing différance of any difference it makes. It changes places and dances together with other unstable indicators such as différance, trace, écriture, supplément, blanc, and marge around a center that can no longer be characterized as either present or absent. It is like dancing around the golden calf while knowing that an unqualifiable god has already been invented. Or, in systems terms, is deconstruction the self-organization of this dance, complaining about a lost tradition and becoming, by this very complaint, dependent upon this tradition, so that it cannot decide and need not decide whether such a center is or is not present.) It may be sufficient for maintaining the dance to be aware of the "trace de l'effacement de la trace"("trace of the erasure of the trace").9
8. Derrida 1985, 7.
9. Derrida 1972a, 77; here and elsewhere, unless stated otherwise, all translations are my own.
デリダ自身はこの議論に熟慮された驚きをもって応答した。 その「日本の友への手紙8」の中で、デリダは、それによって{/その結果として}伝統的存在論的形而上学──それによれば万物は[そう]あるか[そうは]あらない*かでなければならない{/である筈である}──と、その論理にコメントしつつ、「脱構築とは何ではないのでしょうか。勿論すべて、です! 脱構築とは何でしょうか。勿論何でもありません!」と説明している8
角田:
* be、not beは、いわゆる存在を表すとともに、繋辞でもあるわけで、そこらへんはやはり上手く表現できないですね。「あらない」は確か、サルトルの邦訳で使われた手口。 また、
[そう]あらねばならない[ある筈]か[そうは]あってはならない[あろう筈がない]かである
というのも可能かと思います。
8. Derrida 1985*, 7.
*「デコンストラクションとは何か」in 『思想』1984年第4号「構造主義を超えて」
酒井:
昔『思想』に翻訳が掲載された井筒大先生へのお手紙ですねー
そういうわけで脱構築とは、“「で在る」と「では無い」との脱構築”なのである。 脱構築は、現前という前提を──現前と不在の間のどんなものであれ安定した関係という前提を、あるいは現前と不在の区別そのものという前提を──脱構築するのだ。 脱構築は、それがつくる あらゆる差異の、絶えざる différance のもとにある{=差延の主題となる}不安定な概念なのである。
角田:
仏蘭西語は訳さないというポリシーによって、原語のままということにしました。
脱構築は場所を変え、différancetrace[痕跡]、écrituresupplément[代補]、blanc[空白]、中心の周りの marge[余白]といった、 他の、もはや現前とも不在とも特徴づけることができない不安定な指標たちと 踊るのである。 それは、無制約的な神が既に発明されたことを知りながら黄金の子牛{=崇拝の対象}のまわりで踊っているようなものである。 あるいはシステム論のタームでいえば、脱構築とは、こうしたダンスの自己組織化なのだろうか。 伝統の喪失を訴えながらも、まさにその訴えることによって、 この伝統に依存するようになってしまうので、 そのような中心が現前するともしないとも決定できないし、決定する必要もない[そのような自己組織化な]のだろうか。踊り続ける{=ダンスを維持する}には "trace de l'effacement de la trace"(痕跡の抹消の痕跡)を自覚すれば十分なのかも知れない。
9. Derrida 1972a, 77;特記のない場合、すべて翻訳は筆者[←ルーマン]による。(020902)
[0103]
Looking at this discussion of deconstructionists and their critics, the most remarkable fact may well be the narrowness of its span of attention. It is almost a one-word discussion, or a text/context discussion, where deconstruction is the text and the history and the usages of the word the context. It seems as if hermeneutics takes its revenge by interpreting deconstruction. But if the concept really catches some elements of the "spirit of our times," of the intellectual climate at the end of this century, there will be other similar attempts in other corners. And there are of course other"postmetaphysical" theories that start and end with differences and focus on paradoxes and their unfoldings. These theories use time as the main formal medium of shifting connections. They rely on self-reference and recursivity to fix entities (as fictions) in systems of operations, mathematical or empirical, that maintain themselves in dynamic stability.
こうした脱構築家たちやその批判者たちの議論を見ると、最も注目すべき事実がその議論の注意の幅の狭さだというのももっともなことだ。
角田:
deconstructerという言い方もありますよね。
それは一つの-語についての議論、あるいはテクスト/コンテクストをめぐる議論であり、そこでは脱構築はテクストと歴史であり、語の用法はコンテクストである{or そこでは脱構築とはテクストであり、語の歴史と用法はコンテクストである}。
角田:
ここはちょっとわかりにくかったです。自分でいうのもなんですけど、後者の方がいいみたい。
デリダよりもハイデガーみたいですね。ありふれた独逸語をギリシア語まで遡って、それだけで1頁は稼ぐという。
酒井:
デリダもかわらんような。。。「シニフィアンのお戯れ」でしまりなくどんどんスベってく(ワープロ文体?)ところが違う?
それはあたかも解釈学が脱構築を解釈することによって復讐しているかのようだ。 しかしこの[脱構築という]概念が、「我々の時代精神」──今世紀の終わりの知的風潮──のいくつかのエレメントを実際につかんでいるとするなら、他の場所にも{=他の立場でも}同様な試みがあるだろう。 もちろん、差異に始まり差異に終わり{=差異に一貫して拘っている}、パラドックスとその展開*に焦点を合わせる「ポスト形而上学的」理論はほかにもある。
角田:
* unfoldingには「綻び」という意味もありますね。
酒井:
ここでは、業界慣習に従い、「展開」にしときましょう。
これらの理論は、接続 connections を 転換 shift するための主要な形式的メディア{手段?}として時間を用いている。
■酒井追記
これはヤーコブソンの謂う「転換子shifter」を念頭においての発言である、と考えるのがよさそうですね(→『社会の法』の第2章を参照のこと)。
こうした理論は、動的安定性のうちで自らを維持している、数学的あるいは経験的な作動のシステムの中に実体を(フィクション*として)固定する{=落ち着かせる=据え付ける?}ためには、自己言及と回帰性に依拠しているのである。(020906)
角田:
* fiction は fix の縁語なのかどうか。
酒井:
おぉ! それは全然気がつかなかったです(^_^) 「フィクションとしてフィクスする」?
ま、いずれにせよ何を言っているのかはわかりませんが(藁
「理論的内的ジャーゴン連想」でいえば、「固有値←→固有行動」連関を念頭に語っているので「fix」[→不動点(w]という言葉が出てきている、というような“想像”はできますが。
でも、論文の後のほうでも、特に「説明」しているわけじゃないようですし....
[0104]
Given the narrowness of academic citation circles, there are many possibilities of cross-fertilization that remain unused. We may leave them to future "historians of simultaneity."10 But to some extent we could explore these possibilities ourselves.
学術的引用サークルの狭さを考えると、利用されないままになっている、交配[交雑]{=相互-豊饒化}の可能性はたくさんある。 我々はそれら[の可能性]を将来の「同時性についての歴史家たち*」に残しておいてもよい10
酒井:
* 「1960年代に、様々な分野で類似のトピックが登場してきていたこと」をテーマに調査し・跡づけてくれるだろう、将来の歴史家”くらいの意味ですかね。
しかしある程度は、そうした可能性を自分で探求することが可能かも知れない。(020908)
[0105]
An alternative concept of knowledge, starting and ending with différance, emerged in the late 1960s from very different sources. Gregory Bateson, to begin with him, defines information as a difference that makes a difference.11 On this basis, information processing has to be conceived of as transforming differences into differences. A system has to be irritated by a difference to be able to bring itself into a different state. But the two differences can match only if they are constructed by the same system. Other systems, other information.
11. See Bateson 1971*, 2,71-72, 315, 489.
différance* に始まり・différance に終わるような、知についてのオルタナティヴな概念が、1960年代後半に、実にさまざまな水源から出現した。 まず、グレゴリー・ベイトソンは[1ビットの]情報を、“差異を作る差異”と定義している11
11 * 邦訳
これを基礎にすると、情報処理は[ある]諸差異を[別の]諸差異に変形=変換すること、と見なされる筈である。 システムは、自らを異なった状態に至らせることが可能になるためには、差異によって 刺戟されbe irritated なければならない。 しかし、[これらの]二つの差異*が一致しうるのは、それらが同一のシステムによって構築{/構成}される場合のみである。
角田:
  • システムが自らを至らせる差異(効果としての差異)
  • そのためにシステムを刺戟する差異(触媒としての差異)
? 自己触媒化という奴でしょうか。
酒井:
なんのことだか想像もつきません。
[他の差異を用いる]他の諸システムでは、他の情報が[構成される]。(020909)
[0106]
George Spencer Brown assumes that any mathematical calculus has to begin by drawing a distinction to indicate one and not the other side of it.12 Such drawing has to establish (and thereby to cross) the boundary between the unmarked and the marked state.13 Then the distinction can be observed as form. It can be marked, and the processing of the mark may lead to forms of higher complexity -- not oulY arithmetic but also algebraic forms, for example. The mark (indicating one and not the other side of the form) can be observed as the observer who makes the distinction. In other words, any kind of observing system, whatever its material reality (be it biological or neurophysiological or psychological or sociological), can be described as determined by the distinction it uses.14 In the case of autopoietic(that is, self-reproducing) systems, this would mean that an observer has to focus on the self-determined and self-determining distinctions a system uses to frame its own observations.
12,. See Spencer Brown 1979.
13. As deconstruction has to do as well, "depuis un certain dehors, par elle inqualifiable, innommable" ("from a certain outside, unqualifiable and nameless in itself") , referring to philosophy by distinguishing it from what it has dissimulated. See Derrida 1972b, 15. See also Derrida's remarks on the possible future of a non-phonetic mathematical notation, published originally in 1968, which could almost be read as a prognosis of Spencer Brown's Laws of Form (1979) , Originally published in 1969: "Le progre's effectif de la notation mathe'matique va donc de pair avec la de'construction de la metaphysique" ("the effective progress of mathematical notation goes together with the deconstruction of metaphysics") (Derrida 1972b, 47-48).
14. For the possibility of improving on Derrida by using the ideas of Spencer Brown, see Roberts 1992.
ジョージ・スペンサー=ブラウンは、いかなる数学的計算もまず初めに、[区別の](他方の側ではなく)一方の側を指示するために 区別を為さなければならない、と仮定した。
12).邦訳
そのような線引きは マークされざる状態 と マークされた状態の間の 境界を確立しなければならない*(従って、横断しなければ=囲わなければならない)。 
角田:
*前文もそうですけど、ルーマンが米語を書いているのであれば、「確立する筈だ」、「横断する筈だ」でも可です。
脱構築が、 "depuis un certain dehors, par elle inqualifiable, innnomable" (それ自体が限定=修正不能*で名前もない**、ある種の外部から)、哲学***を、哲学がそうでないかのようにとぼけている****ものから区別することによって、哲学を参照しなければいけないようにである。Derrida 1972b,15 を参照せよ。 また、デリダの1968年に最初に公刊された非音声的な数学的記号法=表記法 の可能な未来についての論評を参照せよ。これはほとんど、1969年に最初に公刊された スペンサー=ブラウンの『形式の法則』(1979)の予兆として読むことができるかもしれない ──"Le progres effectif de la notation mathematique va pair avec la notation la deconstruction de la metaphysique"(「数学的表記法の効果的な発達は、形而上学の脱構築とあいたずさえて進む」) (Derrida 1972b, 47-48[邦訳52頁])。
角田:
* qualifierで、限定詞、修飾語ですので、形容不可能という意味かと。
** 仏蘭西語の方から訳すと、「命名不能」。
***itはphilosophyととりました。
**** ないものをあるように振る舞うのがsimulateで、あるものをないかのように振る舞うのがdissimulateか、と。
そこで、区別は形式として観察されうる。 区別はマークすることができ、 マークの加工=処理はより高次の複雑性=複合性をもつ諸形式を帰結するかも知れない──例えば、算術的であるだけでなく代数的である形式。 (形式の他方=向こう側ではなく一方を指示する)マークは、 区別を為す観察者として観察されうる。 換言すれば、いかなる類の観察するシステムも、 それが(生物学的、神経生理学的、心理学的、社会学的というように) その物質的=実質的リアリティがいかなるものであれ、 そのシステムが使用する区別によって規定されるものとして 記述可能なのである。
14) スペンサー=ブラウンの考えを使用することによって、デリダを改善する可能性については、Roberts 1992*を参照せよ。
* Roberts, David. 1992. "The Law of the text of the Law: Drrida Before Kafka." Manuscript. Melbourne.
オートポイエティックな(つまり自己-再生産する) 諸システムの場合、以上のことは、観察者が、 システムが自らの観察を枠づけるために使用する、 自らが規定され、かつ自らが規定する*諸区別に 焦点を合わさなければならない、ということを意味するだろう。
角田:
selfはシステムそれとも区別?
酒井:
んー。どっちでしょー???
[0107]
This has led Heinz von Foerster to explore the possibilities of second-order cybernetics or second-order observations.15 On this level one has to observe not simple objects but observing systems -- that is, to distinguish them in the first place. One has to know which distinctions guide the Observations of the observed observer and to find out whether any stable objects emerge when these observations are recursively applied to their own results. Objects are therefore nothing but the eigenbehaviors of observing systems that result from using and reusing their previous distinctions.
15. Some of the papers in question, and more recent papers, are avaihble in German translation. See von Foerster I993c.
このこと[スペンサー=ブラウンの議論]に導かれて、ハインツ・フォン・フェルスターは二次のサイバネティクスあるいは二次の観察の可能性を探求した。
15. 当該の論文のうちの幾つか、およびもっと最近の論文にはドイツ語訳がある。von Foerster 1993cを見よ。
このレヴェルにおいては、単なる対象をではなく、観察するシステムたちを観察しなければならない。──つまり、まずは[=最初の場所に於いて]、システムたちを区別しなければならない。 この[二次の]レヴェルにおいては、単なる{単純な}対象ではなく、観察するシステムを観察しなければならない。つまり、まず第一に{=第一の順位において}それら[対象とそれを観察するシステム]を区別しなければならない。 [そして]観察されている観察者の{=観察されている観察者が為す} >>諸観察<< を、どの区別が導いているのかを知り、これらの諸観察が自らの諸結果に対して回帰的に適用される時に何か安定した対象が創発するか否かを見つけなければならない。 対象とは、従って、観察するシステムたちが以前に行っていた諸区別を利用したり再利用したりすることから帰結する、それらシステムの固有行動(eigenbehavior)以外の何ものでもない。(20021007)
酒井: 最後の文すごいですねー。骨組みだけ取り出すと「対象とは、行動である」。
とりあえず、角田さんが「固有の振る舞い」と、“開いて”訳して頂いてたのを、もいちど――「ほぼ定訳」になりつつある――「固有行動」に戻しちゃいましたが、それで意味が分かるようになるわけでもありません。
[0108]
One should also mention Gotthard Günther's concept of transjunctional operations.16 These are neither conjunctions nor disjunctions but positive/negative distinctions at a higher level.17 If you find such distinctions being applied by a system (say, a moral code of good and evil, specified by a set of criteria or programs), you can, at the level of transjunctional operations, either accept or reject this frame. Then you may reject this very choice and may look for another form, such as legally right and legally wrong. Transjunctional operations become unavoidable as soon as a system shifis from first-order to second-order observations or, in Günther's terminology, to polycontextural observations. This comes very close to Derrida's attempt to transcend the limitations of a metaphysical frame that allows for only two states: being and nonbeing. It comes close to a rejection of logocentrism. But it does not imply a rejection of logics or of formalisms. Günther is not satisfied with the fuzziness of verbal acoustics and paradoxical formulations and tries, whether successfully or not, to find logical structures of higher complexity, capable of fixing new levels for the integration of ontology (for more than one subject) and logics (with more than two values).
16. See Günther 1976*, 249-328.
* "Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations."[pdf 281k] In Günther 1976-80**, I:249-328
** Beiträge zur Grundlegung einer operationsfähigen Dialektik. 3vols. Hamburg
17. In deconstruction theory, this reads as follows: "An opposition that is deconstructed is not destroyed or abandoned but reinscribed." See Culler 1982, 133.
ゴットハルト・ギュンターの超言的*操作という概念にもまた言及すべきだろう。
16 Günther 1976, 249-328を見よ。
これは連言でも選言でもないが、より高いレヴェルにおける肯定的/否定的区別ではある17
17 脱構築理論においては、このことは以下のように読まれる:「脱構築された対立は破壊されたり破棄されたりするのではなく、再記入されるのである」。Culler 1982, 133を見よ。
もしこのような区別があるシステムによって適用されるのが分かれば*(例えば、1セットの**基準やプログラムによって特定化された“正と邪”という道徳的コードとか***)、超言的操作のレヴェルにおいては、この枠組を受容することも拒絶することもできる。
角田:
* findをどう訳すのかは悩みました。文語では「けり」なのですが、現代語ではストレートに同じ意味で機能する表現はないし。
** ここはたんなる量詞だと思ったのですが、しかしながら、「集合」という意味合いも捨て難く。
酒井:
「1セット」にしときましょうか(藁
角田:
*** 括弧の中ですけど、「システム」だけではなく、全体というかシステムによって適用された区別の例示と取りました。
酒井:
ここは難しいです。解釈としては分かれるところかもしれんですね。
「超言」については、日本語で読める文献に限っていっても、幾つか微妙に異なる解釈が平行して――といっても数はまだ少ないですが――流通しているしているような気がします。
あとで、なんかかければ書きます。
#↑俺様用メモ。
それから、まさにこの選択[そのものが]拒絶され、“法的に正しいこと と 法的に誤っていること”というような別の形式が探し求められるかも知れない*。
角田:
*ここでのyouは、潜在的・可能的にリスナー/リーダーになりうるすべての者という意味だと思いますが、取り敢えず日本語では受け身にして誤魔化しておきました。
あるシステムが一次の観察から二次の観察へと、あるいはギュンターの用語法でいえば多コンテクスチャー的*観察へと移行するや否や、超言的操作は 不可避のものになるのである。これ[超言的操作]は、二つの状態、つまり存在と非在**しか許容しない形而上学の限界を乗り越えようとするデリダの試みに極めて近い。それはロゴス中心主義の拒絶に近い。しかし、諸論理学或いは諸論理形式の拒絶は含意していない**。
酒井:
polycontextural≠「多文脈的」ということで、片仮名表記のままいきます。
角田:
* 一応複数形なのですが、「諸」は五月蠅いでしょうか。
酒井:
わかりませーん。
ギュンターは、言語音*のファジーさにもパラドクシカルな形式化にも満足せず、成功したかどうかはともかくとして、(一つより多い{=二つ以上の}主体=主語のための)存在論と(二値より多い{=三値以上の}値をもつ)論理学の統合のための新しいレヴェルを整えられるようなより高次の複合性=複雑性をもった論理構造を見出そうと試みているのだ。(20021009/1024)
角田さん:
* verbal acousticsというのは、どうもさっぱり分かりません。
酒井:
わかりませーん。
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