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反=理論のアクチュアリティ

反=理論のアクチュアリティ

馬場 靖雄 編
2001年5月発行
ナカニシヤ出版
四六判 262頁 2500円
ISBN4-88848-632-8


まえがき
第1章 二つの批判、二つの「社会」:馬場靖雄
第2章 政治と/の哲学、そして正義:北田暁大
第3章 規範のユークリッド幾何学:竹中 均
第4章 社会的世界の内部観測と精神疾患:花野裕康
第5章 行為としてのフーコー:園田浩之
第6章 社会における「理解可能性」と「理解可能性」との循環:表弘一郎

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まえがき

 「社会学理論(理論社会学)の危機」が叫ばれるようになってから久しい。いわく、最近の社会学理論は「パラダイム・ジャングル」状態に安住していて、ディシプリン全体を束ねる統一的な枠組を提起できなくなっている。社会学理論は実証研究とのつながりを失い、空疎な言葉遊びに堕している。理論を彫琢し深めようとする気概そのものが消えてしまっている、云々。しかし本当にそのような危機が存在するのだろうか。「グランド・セオリー」の欠如のゆえに、あるいは現実からの遊離のゆえに、理論研究が危機に陥るなどということは、実際にはおそらくありえない。社会学界が一定以上の規模を保ち続け、毎年一定数の社会学者が再生産されている以上、社会全体を把握したいという野心を抱く人間も、少数であれとぎれることなく登場してくるはずである。また理論研究がその現実離れした空疎さのゆえに疎んじられているような状況下では、逆にあえて理論に取り組むことが、自分の個性をアピールする手段になったりもする。理論に取り組む社会学者の数が、あるいは理論に関する論文数が減っていくという意味での「社会学理論の危機」は、学会運営および個々の社会学者の営業戦略の問題であって、事実上存在しないといっていいだろう。
 むしろ「社会学理論の危機」が存在するとしたら、それは理論というものに性急に「有用さ」「現実とのつながり」「社会のグランド・デザイン」というものを求めることに起因しているのではないか。むろんそのような理論も社会学にとって、常に必要とされてはいる。しかし同時に理論のうちにには本来、当の「有用さ」「現実性」「展望」等に対する疑いの眼差しも含まれているはずではないか。「理論なんかやっても実際の役に立たない」という非難に対しては、「いや、こういうふうに役に立つ」という反論だけでなく、「〈役に立つ/立たない〉とはそもそもどういうことなのか」という反問もまた可能なはずではないか。後者の可能性を切り捨てて、最初から「理論と実証の往復運動」等の枠内に理論を切り縮めようとすることこそ、「社会学理論の危機」なのではないだろうか。
 スラヴォイ・ジジェクはジョン・フォード監督の名画『わが谷は緑なりき』に関して、次のように論じている。この映画のなかではある男が、自分がかつて所属していたコミュニティを、外部からの経済的圧力によって崩壊してしまった天国として、ノスタルジックに回顧する。しかし実は伝統へと固執してばかりいるこの後ろ向きの態度こそが、当のコミュニティから適応能力を奪い、崩壊へと導いた原因なのだ、と(Slavoj Zizek, Tarrying with the Negative, Duke University Press, 1993, pp.98-99)。
 「社会学理論の危機」も、同じかたちで生じているように思われる。「空疎な理論を捨てて、現実とのつながりを保持しなければならない」という態度こそが、空疎なメタ理論として、理論がもつポテンシャルを切り縮め、枯渇させているのである。現在の社会学の世界において「理論」ということばのうちに有用性、実証研究との往還といった意味合いがもともと含まれているとするならば、われわれが求めているのは「理論」ではなく「反=理論」である、ということになる。
 本書の寄稿者たちの間では、特にテーマ・対象・研究プログラム等が共有されているわけではない。しかし各自が取り組んでいる理論家・思想家・テーマが社会学の世界へと持ち込まれる際に、あまりにも性急に「有用性」「実証性」を求めたことからくる歪みが生じてしまっているのではないかとの疑念と違和感を抱いているという点では一致しているといっていいだろう。本書の第一の目的は、この疑念と違和感にかたちを与え、呈示すること、そしてそれを通して、理論というものがもつ批判的なポテンシャルを再開示することにある。
 したがって読者のなかには本書を一読して、せっかく実証研究との対話と接続が可能なように改善された理論・思想を、再び対話不可能な形而上学の孤立域に閉じ込めようとしているのではないかと感じられる向きもあるかもしれない。われわれも理論(ないし反=理論)は常に現実と接触すべきだし、また現に接触していると考えている。しかしその接触は事実として、すなわちこうして発話され、活字化され、読まれ、論じられるというかたちで現に生じてしまっているのであって、理論の内容によって現実に接近したり離れたりするわけではないと考える。「この本の内容はどんな現実性をもっているのか」との疑問に対しては、「あなたがこうしてこの本を読んでいること自体が、われわれの発話が現実に存在し、現実性をもっていることの証である」と答えておこう。理論は現実を解明・説明するのではない。理論自身が、発話されることを通して現実の一部となるのである。むろん逆に「実証性」「有用性」といった基準やそれに基づく理論も、現に発話されており、またそれを前提とする成果が集積されている限りにおいて相応の現実性をもつわけだが。
 あるいは反=理論は現実との接触は望んでいるが(というか、常に/既に接触してしまっているが)、対話や合意や収斂は望んでいないともいえる。反=理論が望むのは、対話ではなく衝突であり、「闘争」である、と。そしてこの「闘争」は、例えば「あらゆる言説は政治性を孕んでいる」というテーゼのかたちで「示される」べきものではない。それは理論自身によって、実践されるのである。
 われわれはつい先ほど、理論の現実性は発話されることによっていると述べた。しかしより精確には、理論の現実性は発話一般によってではなく、この「闘争」に(あるいは、「闘争としての発話」に)よっているというべきかもしれない。本書馬場論文で引用したルーマンの言葉にもあるように、「あらゆるリアリティは、「言語に対する言語の抵抗」によってテストされる」(34ページ)のだから。
 理論とは闘争であり、闘争こそがすなわち現実である。その意味ではわれわれは徹底的な現実主義者であり、唯物論者である。発話の内容によってその発話が現実性をもったりもたなかったりするなどと考えるのは、観念論者の態度というものではないだろうか。

 本論に入る前に、本書を編むように進めてくださったナカニシヤ出版編集部の津久井輝夫氏にお礼を申し上げておきたい。同氏のご助力がなければ、異質な、場合によっては相互に「闘争」的関係にある諸論考が出会うこともなかっただろう。

 それでは、6つのアリーナにおける闘争をとくとご鑑賞いただきたい。どこにどの順序で入場されるかは、むろん読者のご自由である。

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