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正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築

馬場靖雄
At the Gate Called "Justice"
BABA, Yasuo


7.結語:歩かねばならない、一襞一襞

 最後にもう一度、コーネルの議論に立ち返ることにしよう。ルーマンを痛烈に(しかし、われわれから見ればかなり的外れに)批判したコーネルだったが、彼女自身ルーマン寄りの論者(Rasch[1995:207ff.])から、次のように批判されている(といってもわれわれには、この論者のルーマン理解自体もまた、きわめて不十分であるように思われるのだが)。

 コーネルは、抑圧され、沈黙させられた他者の痕跡が、あるいは排除された他者の記憶が、システムの変革をもたらす「内在的超越」を可能にするという。そしてコーネルは例として中絶の問題を取り上げて、現行の法システムにおいては、女性が排除・抑圧された他者の位置にあると主張する。しかし、同じ論理によって胎児が他者であるとも主張しうるのではないか。真に抑圧・排除されているのは女性ではなく、胎児の権利のほうであり、それこそが何にも増して回復・救済されねばならないはずだ、というようにである。コーネルは変革の可能性を視野に入れることによってこそシステムの偶発性(他でもありうること)を現実化しうる、したがって他者の痕跡を考慮することは偶発性の別名(another term for contingency)である、という。しかし実際にはコーネルは、フェミニストの立場を絶対的で必然的なものとして設定することにより、他の可能性を排除しているのではないか。むしろ彼女が考える「変革」とは、偶発性の絶滅(cotingency's termination)なのではないか。結局のところコーネルは、両性の平等な扱いを、それがまったく根拠づけられえない−−少なくとも、すでに生まれている者/胎児の平等よりも優先されるべきであるとの理由を示しえない−−にもかかわらず、超越(論)的原理として外からシステムに押しつけているのだから。

 まずは、このような批判は不当であり、それに対するコーネルの反批判(Cornell[1995b:232f.])は完全に正しいということを、確認しておこう。すなわち−−両性の平等な扱いは、機能分化した法システムの内在的原理から生じるのであって、超越論的に要請されるのではない。したがって、女性も胎児も、排除された他者として等しく扱われうるとのラッシュの議論は誤っている。近代法システムに内在する原理に従えば、女性は法のうちに包摂されているなずなのに、実際には排除されている。一方胎児は、原理的に権利主体たる人格としては扱われていない。もちろんこの規定も暴力的の産物ではある。しかし「内在的超越」をめざす私(コーネル)は、この規定をとりあえず受け入れる。

 しかしだとすると、コーネルが実際に行っていることは、むしろわれわれが前節で提起した、「観察の観察としての脱構築」に近いのではないか。あらゆる規定性を免れる、純粋な否定性としての正義など、不必要なのではないか。むしろそのような正義を掲げれば、超実体化によって「偶発性の絶滅」をもたらす危険を抱え込んでしまうことになりはしないだろうか。その点に限っては、ラッシュの批判も一理あると言えるのではないか。

 再度確認しておくならわれわれは、観察の観察を不断に行いながら、同時に何らかの「背後」にたどり着こうとする誘惑と常に戦っていかねばならないのである。あるいは「法の力」を捩って、こう言ってもいいかもしれない。法の背後に、それを可能にしたり一定の方向へ導いたりする何らかの「力」を求めようとしてはならない。その「力」が、まったく無規定な、それ自体としては存在しえない「正義」であろうと、あるいは麗しい「寛容の精神」であろうと同じことだ。むしろ、法をめぐって生じるあらゆる観察=作動が、それ自体として現実的な力であると考えるべきなのである。


 最後に本稿の全体を、二つの音楽作品のタイトルによって要約しておくことにしたい。ひとつはルイジ・ノーノの《夢みながら“歩かねばならない”》(“Hay que caminar" so”ando)である。われわれは常に何らかの区別を用いて、歩みつづけねば=観察し続けねばならない。「決定不能性」に立ち止まることはできない。決定不能性について述べる(観察する)こともまた、現実に生じる作動なのであり、何らかの現実的効果を常に産出する。そしてその効果を、一定の区別を用いて観察しつつ確定する(決定する)ことは、常に可能なのだから。ただし現実の作動とは別のレベルに位置する「夢」が、われわれを一定の方向へと導いてくれるなどと考えてはならない。ルイージ・ペスタロッツァがライナー・ノートのなかで述べているように、「音楽は、ノーノの音響空間を好きなように『歩んで』行く。そこでは、音楽が向かう方向というのは、何の意味も持たない」のである。むしろわれわれの歩みの軌跡そのものが、夢と化すのである。コーネルが主張していたように、それが次の一歩を踏み出すための手掛かりとなってくれるだろう。だが、繰り返すことになるが、夢はわれわれの「背後」に位置するのではない。

 第二の作品はブーレーズ(=マラルメ)の《プリ・スロン・プリ》(Pli selon pli)である。われわれは歩みのいかなる段階においても、一挙に全体性に到達することもできなければ、またそれを脱構築してしまうこともできない。ひたすら区別のあとに区別を、「一襞一襞」積み重ねていくしかないのである。いつか霧が完全に晴れてブリュージュの街全体を見通せるだろうという希望はもてないにしても(あるいは、むしろそれゆえに)、ひとつひとつの区別によって得られる解像度を、最大限高めるよう努めることはできるのである。


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