日曜社会学 > 馬場靖雄論文書庫   この日記のはてなブックマーク数 このエントリーを含むはてなブックマーク

正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築

馬場靖雄
At the Gate Called "Justice"
BABA, Yasuo


5.二つの脱構築

 以上の議論から、われわれは何をくみ取るべきなのだろうか。とりあえず、「法の力」第一部と第二部とでは、議論の方向が逆転しているということを確認できるだろう。すなわち第一部では、(コーネル流の言い方をすれば)同じものを再生産しようとするシステムのメカニズムに抗って新たな秩序を構想するための拠点となる、純粋な否定性としての正義が追求された。一方第二部では、そのような純粋な否定性が、常に現実的な(場合によっては、もっともおぞましい)要素との混合形態において現れてくるということが示されているのである。いわば第一部は天上への上昇であり、第二部は地上への下降である、というわけだ。あるいは第一部においては「無」こそが法の「本質」を形成しているのに対して、第二部ではまず存在しているのは現実の混合形態であり、そこに含まれる異質な諸要素の間の齟齬こそが、救済のチャンスをもたらすと同時に、恐るべきものを招来する危険をも孕んでいるとされるのである。この二つの方向性は、東[1995]のいう「二つの脱構築」のそれぞれに対応しているように思われる。

 東は、「ゲーデル的脱構築」と、「(後期)デリダ的脱構築」を区別するよう提案している。前者は、われわれが第1節でとりあえず定義しておいたような意味での脱構築である。すなわち、「いかなるヒエラルキー(形而上学的二項対立)にも、必ずその一貫性が自壊してしまう地点がある。〔この地点が存在するということが、「ゲーデル問題」である。〕その地点を暴露し、既成のヒエラルキーを転倒(あるいは解体)する批評行為」([ibid.:82]〔 〕内引用者、以下同様)である。しかしこれは一種の「否定神学」に行き着かざるをえない。つまりこの作業によって暴露される「空虚」や不可能性が、あらゆる存在者に内在する「本質」として措定されてしまうのである19

 東はこのゲーデル的脱構築=否定神学の例として、次のような議論を挙げている。

1.ラカン派におけるにおける主体の概念(/S)。「ラカンにおいては主体は『無』であり、逆説的に『無』であることによってのみ、主体は主体であり得る……」([ibid.:90])

この無としての主体こそが、あらゆる現象の「根底」にある、というわけだ。かくして、ラカンの議論を社会・文化分析に応用したジジェクの議論においては、ヘーゲルもフロイトもソシュールもポーもヒッチコックもスピルバーグも、すべて主体の空虚とそれを埋める「不可能なもの」(現実界ないし対象a)について語っていた、ということになる。「ラカン派精神分析によって、このような複数性自体が、同じ不可能で・リアルな核に対する多様な反応であることが明らかになったのである」(Zizek [1989:4])、と。

2.(ジジェクによって解釈された)クリプキの固有名論。固有名は確定記述の束(体系)によっては置き換えられえず、原初の名指しの伝達が必要である。ジジェクはこの議論をさらに徹底化する。名指しは現実に存在するものではなく、むしろ固有名の自己同一性が孕んでいる空虚が「外」へと投射されたものに他ならないのだ、と20

 とりあえず後者の例に則して話を進めていくことにしよう。注(11)でも述べたように、ジジェクの議論は、伝達を説明の「根拠」となる事実的なメカニズムと考えるという解釈に比べれば、はるかに洗練されており、徹底している。にもかかわらず、あらゆる自己同一物には内的な空虚と決定不能性が孕まれている というこの種の議論は、ある種の倒錯であると言わねばならない。それは、いたるところで錯綜し、断絶する無数の伝達経路を、透明な全体性(自己同一性)へと縮減することから生じてくる、錯覚にすぎない。むしろ固有名の「空虚」(あらゆる属性をはぎ取っても、「アリストテレス」という固有名は通用しつづける)ないし「過剰」(固有名「アリストテレス」は確定記述の束以上の何かである)は、次のように理解されるべきである。「かつてどこかで『アリストテレス』が名指された。しかしその起源にはもはや遡行できない。そして『アリストテレス』は、様々な経路を通り配達される。いまや名『アリストテレス』は、無数の経路を通過してきた複数の名の集合体と言ってもよい。したがって当然、名『アリストテレス』に結びついた複数の確定記述どうしには齟齬もあるだろうし、ある『アリストテレス』に他の手紙〔=伝達された確定記述〕が混入してしまったり、またある『アリストテレス』の一部が行方不明になってしまうこともあるだろう。それらの齟齬を調停することは永久に不可能である。だからこそ『アリストテレス』にはつねに訂正可能性が憑きまとっているわけだ。〔そしてその訂正可能性が、空虚ないし過剰として現れてくる。〕……名『アリストテレス』は常に幽霊(revenant, spectre, fantome〔もちろんここに、Gespenstというドイツ語を追加することもできよう〕)に憑かれている。幽霊は、可能性と多数性(反復)の移送にあり、ネットワークの必然的な不完全性において現れるのだ。幽霊は、デッド・ストックの空間に居すわり、私たちをつねに脅かし続けることになろう」([ibid.:97f.])。

 この不完全な錯綜したネットワークより成る空間を露出させようと試みるのが、「(後期)デリダ的脱構築」である。再度確認しておこう。ゲーデル的脱構築は、錯綜体の消去→同一性→その脱構築→否定神学(ネガティブであれポジティブであれ)……と進んでいく。そして否定神学は常に、「超実体化」を介してアイデンティティ・ポリティクスの一部へと化す危険を孕んでいるのである。しかし「……私たちの考えでは、『幽霊』には、形式体系を想定すること、アンチノミーに行き着くこと自体が転倒であるという認識が含まれているはずなのだ。/システム全体の脱構築の結果として得られる『外傷』『穴』から、システムの細部、シニフィアンの送り返し一回一回の微細なずれによって引き起こされる無数の『幽霊』へ。もはやシステム全体を見ることができない以上、ゲーデル問題も起こらないのである」([ibid.:98])。

 これはルーマン解釈にとっても、あるいは批判的社会(学)理論一般にとっても、きわめて重要な論点であるように思われる21。われわれはここで再び、ルーマンの議論に立ち返ることにしたい。


| top | 0/1/2/3/4/5/6/7/note/ref | home |