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正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築

馬場靖雄
At the Gate Called "Justice"
BABA, Yasuo


3.不在の戦略か戦略の不在か

 ルーマン解釈の当否はともかくとして、コーネルが行おうとしている脱構築の作業自体は、十分に首肯できるものであろう。改めて確認しておくならば、ここでの「脱構築」は、形式的体系(それは多くの場合、男性/女性、システム/生活世界といった二項対立を前提とする)の内的一貫性・自己完結性を瓦解させ、別の秩序の可能性を開示すること、そしてより善き秩序への希望を、それを根拠づけることができないのを知りつつ、あえて引き受けることであると、規定できるだろう。しかしごく形式的に捉えた場合、そのような姿勢はことさら「脱構築」などと呼ばなくとも、すべての社会学者が何らかのかたちで行っていることなのではないか。対象(社会あるいはその部分領域の現状)なり理論なりは、一見すると円滑に機能しており自己完結しているように見えるが、実はその内部にはこれこれの矛盾や決定不能性が孕まれており、それゆえに一面的である。われわれはより包括的で多様な側面を考慮しうる、新たな秩序ないし「パラダイム」を構築しなければならない9。われわれは前節の最後で、「脱構築は批判として有効なのか」との問いを提出した。だが、今述べた作業を広い意味での「批判」と呼ぶとすれば、デリダの「脱構築は正義である」をもじって、「脱構築とはすなわち批判である」と言ってしまいたくなるところだ。

 もちろんこれは事態をあまりに単純化しすぎている。「新たなパラダイム」の確立をめざす「科学革命」の過程における「批判」は、あくまで一つの自己同一的体系から、より優れた別の体系へ移行するための契機であり、通過点にすぎない。例えばパーソンズは功利主義/理念主義を超えて主意主義へと到り、そしてハーバーマスがシステム理論と「意味学派」を超えてコミュニケーション行為の理論へと到ったように、である。一方脱構築は既存の体系からの脱出を試みはするが、新たな体系に落ちつくのを拒絶するのだから。ルーマンもこう指摘している。解釈学は、内/外の区別を、すなわち意識とその対象(テクスト)の差異を、あくまで保持しようとする。パースやヘーゲルがめざしたのは、この対立を超えて第三のポジションへと到ることであった。「脱構築はこれに対して、このポジションを回避するために投企されてきた」(Luhmann[1995a:13])。あるいは脱構築は、区別に焦点を当てはするが、統一性を再確立しようとの希望はもたないのである、と。

 だがこと社会(学)理論に関するかぎり、近年の「新たなパラダイム」を求めるさまざまな試みは、脱構築の方向へと接近していっているように思われる。それらにおいても相変わらず、既存の体系に内在する一面性や亀裂を突くという作業が続けられている。しかし今では脱出先は、固定された新たな枠組みというよりも、むしろ同定不可能な開かれた差異の集積として想定されている場合が多いように思われる。例えば、固定的な組織や政党に依拠した従来の社会運動から、多様な利害関心が織りなすネットワークによって担われる「新しい社会運動」へ。個人の合理的行為と固定的な社会構造の二分法を超えて、両者を共に構造化する、無数の「ミクロな」権力作用へ。国民国家を単位とする均質な文化概念から、文化を「戦略的な闘争とネゴシエーションの場、意味と解釈をめぐるポリティクスの場」(姜・成田・吉見[1996:72])として捉える「カルチュラル・スタディーズ」へ、等。正義をネガティブに把握するという発想は、ある意味ではアリストテレスにまで遡りうる伝統的なものであるが、このような動向の一部として位置づけることも可能だろう。あるいはハーバーマスは公共性に関する初期の議論から今日の「グランド・セオリー」に到るまで、一貫してそのような構想を押し進めてきたとも言えるかもしれない。さらにルーマンの「オートポイエーシス」もしばしば、開かれた差異を強調する理論として解釈されたりしているのである10

 いうまでもなくこれらのアプローチのそれぞれは有益な面を含んでおり、追求・展開されるだけの価値を有していよう。しかしそこには同時に、批判的立場を貫徹しようとするのであれば回避しなければならない、ある種の隘路も存在しているように思われるのである。

 確かにそこでは、同一的な枠組から逃れたつもりで、結局はまた別の枠組に囚われてしまうという罠は回避されている。だが、同一性に対置されている、囲い込み不可能な諸「差異」は、同一性をもたないというまさにその特質において、自己同一的な「本質」と見なされてしまっているのではないか。コーネルも含めて、むしろこのような方向性こそが、「否定神学」の名に値するのではないだろうか(この点については後でまた触れる)11。この戦略の危うさは、次のような「政治的」インプリケーションにおいて明確になってくるように思われる。今日では「アイデンティティ・ポリティクス」への批判が至る所でなされている。一見伝統的で自然に見える、しかし実際には近代において捏造されたアイデンティティを批判し、それを再生産していくメカニズムを暴露し、多様性・異質性へと開かれた、寛容なアイデンティティを称揚する、というわけだ。しかし、最強のアイデンティティ・ポリティクスとは、「われわれはいかなるアイデンティティももたない」「われわれは寛容であり、われわれのアイデンティティは常に開かれている。しかし彼らはそうではない(『原理主義者』である)」というものではないのだろうか。

 例えば、土屋[1996]では、そのような「開かれたアイデンティティ」を、ロールズを援用しつつ、日本社会にもともと存在していた「無縁」というかたちで称揚するという、みごとな議論が展開されている。しかしその中にも、今述べたネガティブなアイデンティティ・ポリティクスの危険が現れてきているように思われる。当然のことながら、「無縁」を原理とする開かれた社会は、異なる多様な価値に対する寛容を要求する。「多数の価値があり、多数の共同体がある。その共同体のどれかによってすべてをつつみこんでいけるなどとは、誰も思わないだろう。その多数の共同体同士の関係は、それぞれの共同体に相手を吸収することなく、相互の関係のうちに、相互を調整する基準を作っていくだろう。」[ibid.:106]。

 しかしこの寛容の戦略は、周知のように、ひとつのアポリアに直面せざるをえない。すなわち、相手に対する寛容の態度を取らない者を、どの程度寛容に遇するべきか、という問題である。土屋はこの問題に対して、ロールズに依拠しつつ、おそらく実際上唯一可能であろうと思われる答えを与えている。すなわち、そのような相手に対しても、可能な限り(つまり、寛容を可能にする体制が脅かされる恐れがない限り)寛容な態度を取るべきである、と。「……どこまでいったら不寛容な者を否定するのかは、結局、自由の条件、自己保存の権利が、どこまでいったら危機にあるということになるのかを決めなければ、決断することはできない。/きわめて具体的で繊細な条件の設定が必要なのだ」[ibid.:122]12。繰り返すが、実際にはこれ以外の解答はありえないだろう。しかしあえて言えば、ここではすでにある種の倒錯が生じているのではないか。

 この点を明らかにするために、スラヴォイ・ジジェクの議論(「ヘーゲル論理学+反ユダヤ主義」というお得意の話題!)を援用してみたい(Zizek[1994=1996:85ff.])。「ユダヤ人」という表示と、反ユダヤ主義者によってそれと結び付けられている、(欲深い、利に聡い、謀略に長けている、汚い……)という一連の具体的メルクマール(もちろんそれはまったくの偏見にすぎないわけだが)の関係について考えてみよう。両者を結合する三つの様式が考えられる。

1.(欲深い、利に聡い、謀略に長けている、汚い……)−ユダヤ
 ここでは、( )内の一連のメルクマールが、ユダヤというひとつのメルクマールへと短縮される。
「(利に聡い、謀略に長けている )はユダヤ人と呼ばれる」。
2.ユダヤ−(欲深い、利に聡い、謀略に長けている、汚い……)
 具体的メルクマールと「ユダヤ人」の位置が入れ代わることによって、連結記号(−)の働きは、「説明」へと変化する。
「Xがユダヤ人であるのは、彼が(利に聡い、謀略に長けている……)からだ」。
 最後に、2を再び逆転するという、「否定の否定」の操作を加えてみる。だがその結果生じるのは−−ヘーゲルの論理学において常にそうであるように−−もとの1ではない。
3.(欲深い、利に聡い、謀略に長けている、汚い……)/ユダヤ

  新たに登場する連結記号(/)は、説明と短縮が同時に生じる「綜合」を意味している。「3の特異なところは、それが2の繋辞を維持しながら1に戻っているということだ」([ibid.:88])。
「Xが(利に聡い、謀略に長けている……)のは、彼がユダヤ人だからだ」。
ここでは「ユダヤ人」という、もともとは短縮のための単なる方便であったはずの無内容なメルクマールが超実体化されて、むしろあらゆる現実のメルクマールをも説明しうる、絶対的な根拠へと転化している。それゆえに今や、次のように言うことができるのである。「彼は一見すると(利に聡い、謀略に長けている……)ようには見えないが、本当はやはり(利に聡い、謀略に長けている……)のだ。なぜならば彼はユダヤ人だから」。「彼が一見すると(利に聡い、謀略に長けている……)ようには見えないという事実こそ、彼が(利に聡い、謀略に長けている…… )証拠である。なにしろ彼はユダヤ人なのだから」。

 同じ「超実体化」が、ポジティブなかたちをとりつつ、ロールズ=土屋の議論にも生じていないだろうか。われわれが「寛容派」であるのは、現に個々の場面において自分とは異なる者を排除していないからであろう。ところが、「われわれ=寛容派は、どこまで彼ら=非寛容派を許容できるのか」というように問題が立てられる時、結論の如何に関わらず、つまりわれわれが他者を排除しようとしまいと、あらかじめわれわれは寛容派であり彼らが非寛容派であることが確定してしまっているのである。この「超実体化」を国民国家、文化圏、宗教といった具体的メルクマールに則して行ってしまえば、あとはあらゆるものが「非寛容な原理主義との戦い」として正当化されてしまうことになろう。セルビア人過激派によるあのおぞましい「民族浄化」ですら、である。なにしろ、「多くのヨーロッパ人にとってイスラム教徒というものは、いかにオープンでリベラルで世俗的であったとしても、全員が、原理主義者だということになってしまう」(Goytisolo [1993=1994:82])のだから。あるいはハーバーマスが「憲法に依拠した愛国主義の解釈をめぐる公共のディスクルス」について語る時(Habermas[1990=1992:80])、同様の超実体化が生じかけてはいないだろうか13。もちろん、現にそれが生じているか否かを判定するためには、土屋のいうように、「きわめて具体的で繊細な条件」を見極めなければならないだろう。だが「開かれた差異」を、アイデンティティの不在を称揚する戦略には、常にそのような危険が(不在の戦略が、戦略の不在と化す地点が)随伴していることを最低限確認はしておくべきであろう14

 理論レベルにおける「開かれた差異」戦略においても、同様の問題が登場してくる可能性がある。例えば−−これはたまたま目についたものにすぎないのだが−−岡原[1988]による「感情社会学の試み」を取り上げてみよう。岡原は、エスノメソドロジーに依拠しつつ、次のように主張している。感情はまったく主観的な現象ではないが、かといって規範によって完全に決定されているわけでもない。重要なのは、「規範Vs. 主体」という二項対立を超えて、(感情という)現実を構成し秩序化する、深層規則を探究することである。ただし同時にわれわれは、「相異なる感情的秩序化作業間に存在するヘゲモニー闘争・政治性を主題化する視点の確保」([ibid.:28])の必要性を自覚するべきである。そうでないかぎり、「深層規則の絶対主義を招く」([ibid.:30])ことになるからだ。

 この指摘は全面的に正しいし、またそれが「開かれた差異」戦略の一ヴァージョンであるのも明らかだろう。閉じられた単一の規則の専制ではなく、複数の相異なる規則化戦略の闘争がそのつど形成する、開かれた秩序化のプロセスを考えよ、というわけだ。にもかかわらずもう一歩先に進もうとすると、件の問題に直面せざるをえなくなる。すなわちわれわれは、「ヘゲモニー闘争」を規制する構造や、相異なる秩序化作業の闘争のなかからひとつの秩序が形成されるに到る「メカニズム」を同定しようとの誘惑にさらされるのである。そのような構造やメカニズムが確認された(と信じた)時、それ自体が排他的な「深層規則」と見なされうるはずである。あるいは、開かれていたはずの闘争の舞台が、「超実体化」されて、閉じられた密室と化してしまう、と言ってもいい。もちろんそのような構造・メカニズムを探究することがあらゆる社会(学)理論の最終的課題であると考えるという、広い意味での「構造主義的」立場を取ることもできよう。だがそれならば最初から、「開かれた差異」などという題目を掲げるべきではあるまい15 16

 この隘路から脱出する道を探るために、デリダの「法の力」に立ち返ることにしたい。ただし今度は第2部のほうへ、である。


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