日曜社会学 > 馬場靖雄論文書庫   この日記のはてなブックマーク数 このエントリーを含むはてなブックマーク

正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築

馬場靖雄
At the Gate Called "Justice"
BABA, Yasuo


2.閉鎖性の脱構築?

 コーネルにとってルーマンの法システム論は、法実証主義の最新ヴァージョンとして位置づけられる。すなわち、現に存在する法規およびそれをめぐって生じる事実的な作動(コミュニケーション)を超えるような要素をもたない、閉じられた体系の理論として、である。「法実証主義の最新のブランドは、ニクラス・ルーマンによって提供されており、オートポイエーシスの名のもとで継続中である。しかし名前は新しいとしても、法実証主義の究極のプロジェクトは同一のままである。それはすなわち、法的命題の妥当性の問題を、現存の法システムによって内的に産出される妥当化(validation)のメカニズムに訴えることによって解決することである。……オートポイエーシスとしての法という概念の中核は、規範的に閉じられたシステムの自己維持という、このアイデアなのである」(Cornell[1995a:234 ])。

 ただしもちろんルーマンの理論は、従来見られなかったほど徹底したものである。それは、法の外にあって法を根拠づけるようなものを一切排除しているからだ。神も、道徳も、主権者による命令も、人間そのもの(心的システム)も、排除される。したがってオートポイエシスの構想に基づく法システム論は、一種の無根拠性(Grundlosigkeit)の様相を呈することになる。しかしそこでは無根拠性は、いわば暴かれると同時に「解決」(隠蔽)されてしまう。法システムは規範的に閉じており、内的な確証メカニズムによって「法の法」(das Gesetz des Gesetzes)=善の構想が、すなわちシステムのあらゆる作動の基準が、設定されうるものとされているからだ(Cornell[1994:62])。

 あるいはデリダに 則して、次のように言うこともできよう([ibid.:62ff.])。デリダは法を脱構築することによって、法の自己完結性の外観を突き抜けて、法のなかに潜む法を超えるもの、すなわち法に内在する倫理的他者性を暴き出そうとする。しかしその「倫理的他者性」には、二つのヴァージョンが存在する。1.法の起源・根源の不在こそが法の真理であり、法の法であると考える。コーネルはこのタイプの議論を、「否定神学」と呼んでいる。2.法は自己完結していないがゆえに、法を解釈するに当たっては、未だ来たらぬもの(和解の地平)を投企しなければならない。この不在の未来こそが、法の法である。

 ルーマンの「無根拠性」は1の「否定神学」のレベルに留まっている。そこでは確かに法の起源が不在であることが暴露されはする。しかしそこからただちに、その空白を埋めるための、法内部における法の再生産メカニズム(法は法的手続きによってのみ作動し続ける)が必要であり、また現にそのようなメカニズムが存在しているとの結論が導き出されてくる。かくしてこの他者性は、既存の状態を正当化するための露払いでしかなくなってしまう。正義を含めた法のあらゆる作動は、再生産メカニズムによってのみ存在しうる。したがって正義は、そのような現に働き続けている事実的なメカニズムのうちにしか求められえない(ということは、そこにおいて求められうる)、というわけである。

 一方2の場合も、確かに法の内部においては根拠は不在であり、したがって善についてもポジティブに語ることはできないと見なされる。しかし善は常にその痕跡(レヴィナス)を残しており、各人が各人の責任においてその痕跡から、来るべき善の姿を読み込んでいくことは可能だし、またそれが必要でもある。「脱構築はわれわれに、『倫理的なもの』の意味は未来へと移されていることを思い起こさせる……。解釈とはすなわち形態変更(Umgestaltung)であり、したがってわれわれが解釈を行うや否や、われわれはこの形態変更の方向に対して責任を負うのである」([ibid.:94])。オートポイエティック・システムの理論にとっては、解釈とは法の内的基準に基づいた法的作動の再生産であり、基本的には−−新たな解釈や解釈の修正がなされる場合においてもやはり−−同じもの(システムの同一性)の反復である。しかしデリダが『声と現象』以来執拗に強調してきたように、純粋な反復などというものは不可能である。反復のなかには常に異なるものの痕跡が−−「差延」が−−含まれているのである。それゆえに、「法の解釈は、未来を想起することを要求する」([ibid.:88])5

 もっとも、一部の批判者のように、ルーマンのシステムは自己完結的・独我論的であり、他者を欠いていると主張するのは、行き過ぎであろう。ルーマンも、根拠・起源の不在というかたちで他者性を考慮しているからだ。「しかしこの他者は、システムの自己限定の形式でしかない。他者は、システムの(of)他者であって、システムに対する(to)他者ではない」(Cornell[1995b:228])。一方われわれ(フェミニスト)は、否応なしにシステムに対する他者の立場を取らざるをえない。システムの自己限定は常に、マイノリティの排除を意味してもいる。「〔ルーマンがそうしているように〕何らかの既存の状態を正義として同定することは、そのシステムの内部で語りえない、あるいはあえて語ろうとしない他者に、沈黙を押し付けることである」(ibid. [1992:228])。そして女性こそがまさにそのような他者に他ならないのである。法システムは、例えば生殖に関する自己決定権をめぐって、女性を排除してきたし、今また新たに排除しようとしているからだ。「……フェミニストは、象徴的秩序の外側に置かれた者として、ジェンダーのシステムを含むシステムの境界画定とは、まさにわれわれをその外側に置くということであると、見なすのである」([ibid. ])。かくしてフェミニストは、未だ来たらぬものがおそらくは永遠に不在のままであり、それが到来した時にはすでに別のものになっているだろうということを自覚しつつ、それでもなお(というよりは、まさにそれゆえに)善きものを求める活動を続けていくのである。

 このようなコーネルのルーマン批判に対して、反論を加えることは比較的容易である。例えばコーネルによれば、ルーマンにおける正義はあくまで法システムを既存状態のまま再生産する、システム内的な基準にすぎない、ということになる。しかしルーマンは正義を、法システムの偶発性定式(Kontingenzformel)として規定している。偶発性定式は、無規定な偶発性を規定的な偶発性に変換し、それによってシステムを同定することを可能にする(Luhmann[1981:387])。つまり、その言葉のもとで、システム総体が取り組むべき問題が示されることになるのである6。その点で偶発性定式の機能は、システムの内部においてシステム総体を代表=表出すること(Reprasentation)であるとも言える。ただし正義を、特定の事態を選択し、他のものを排除する選択基準であると考えてはならない。そう考えてしまうと、正義は法システム内に存在する他の様々な選択基準と同レベルにあることになり、システム総体を代表=表出するという機能を失ってしまうからだ。したがって正義からどんな決定を導き出しうるかを、あらかじめ予測するわけにはいかない。だから個々の決定に際しては、正義を規範として適用することよりも、むしろ特定の規則が不正義であるとの印象のほうが、手掛かりとして用いられるのである(ibid.[1993:221f.][1981:397])。このようにルーマンもやはり、正義のネガティブな性質を強調しているのである7

 より具体的には正義は、適合的な複雑性を保ちつつ一貫したかたちで決定を下すこととして現れてくる。そして適合性は、法システムの全体社会システムへの関係のなかで生じてくる(ibid.[1993:225f.])。あるいはそれが、「等しい事例は等しく、等しくない事例は等しくなく、扱え」という伝統的な正義の定式として登場してくる場合もあるだろう(それが唯一の登場の仕方ではないにしても)。

 このように述べると、やはりコーネルが批判していたように、ルーマンにおける正義は、法システムの内的状態(一貫性)なり、全体社会の現状(適合的な複雑性)を基準として、異なるものを排除し同じものを再生産するのではないかとの疑念が生じてくるだろう。だが、「等しい/等しくない」にしても「適合/不適合」にしても、確固たる基準というよりも、むしろそのつど新たに生じる事態を観察し、分類するための図式なのである。これらの図式にしたがって新たな事態が分類されることによって、システム状態が常に変化していくことになる。だからこそ正義は選択基準ではないということが強調されているのである。「いわば、『等しい/等しくない』の図式によって、一定の理由から(例えば、法の安定という理由によって)繰り返しに傾きがちなシステムに、分岐が導き入れられるのである。それによって、オープンな決定状況が新たに作り出されることになる。そのつど新たに下されねばならない決定に関する、『等しい/等しくない』という観点に基づく比較こそが、この機能を担うように思われる。一般には、立法者や契約締結者の意図を吟味してみるという手法が用いられている。だが、これは可能な探索針のうちのひとつでしかない。回顧的に、あるいは未来を先取りするような仕方で、決定を比較してみるという方法を追加することもできるはずである」([ibid.:236f.])。かくしてルーマンにおいても正義は、未だ実現していない別の状態を呼び込むための窓口としても機能しうることがわかるのである。

 あるいはさらに一般的に、コーネルは(というよりも、ルーマンの「法システムの閉鎖性」テーゼを批判する論者の大半は)そもそも「閉鎖性」という概念をまったく誤解しているのではないかと、論じることもできよう8。しかしその作業は別の機会に譲るとして、ここではむしろ、コーネル流の脱構築の戦略(それはルーマンの議論のなかにも散見されるように思われる)が、はたして批判の戦略として有効なものでありうるか否かを検討していくことにしたい。


| top | 0/1/2/3/4/5/6/7/note/ref | home |