注12:

またバリバールは同様の観点から、「誰でもないこと、言いかえれば、なりたいすべてのものであること、出会いのままに、結合、融合、混合、必要、有用性のままに、そこにはいかなる秩序も軸も特権的な名前もなく、ある人格や役割から別の役割に変動すること」を称揚する、「ある種のポストモダン的ユートピア」を批判してもいる(Balibar 1998=2000, 154-155)。そこでは、「誰かである」ことが視野の狭い拘束された意識状態であるのに対して、「誰でもない」より高度な段階に到達しえているというハイアラーキーが想定されているからだ。