注11:

水嶋一憲はやはりバリバールに依拠しつつ、市民を特定の「誇張命題」によって定義してはならないとの結論を導き出している(水嶋 2000)。むろんこの点に関しては異議はない。しかし水嶋は市民のメルクマールを、既存の枠組を(具体的には、国民国家を)打破して人権をより普遍的なものへと拡大していく、その運動のうちに求めようとしている。市民主体の概念によって、「市民権を政治への普遍的権利として定義し、それを無制限かつ力動的な拡張性へと開き続けようとする構想への決定的な移行が画されているのである」(水嶋 2000, 35)、と(Faulkas 2000, 165-166も、同様の議論を展開している)。しかしこの運動は依然として、〈個別−普遍〉という一次元的なハイアラーキーの内部で生じているのではないか。水嶋の考える市民主体も、やはり普遍的審級に服従する存在である。ただその服従の対象が具体的な国家から、決して到達しえない無限遠点へと移されているだけの話である。あまりにも手垢の付いた言葉をあえてもう一度用いるならば、これは一種の「否定神学」ではないだろうか。むろんわれわれも、国民国家を打破することが市民主体がもたらす最も重要な効果(のひとつ)であろうとは考えている。しかしそれはあくまで帰結であって、市民主体のメルクマールそのものではない。あるいはわれわれにとって問題なのは、国民国家から区別の他の側へと横断することではなく、それを端的に棄却することなのだと言ってもいい。