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 法化(Verrechtlichung)はいうまでもなく、本来法システムに関わる問題である。しかしルーマンも指摘しているように、法化をめぐるドイツでの議論は、多かれ少なかれ政治的な含みをもっていた。福祉国家への批判と、生活世界を重視せよとの主張を含意していたのである。隣人によくしてコンフリクトを避けよ、というわけだ。しかしこの種の主張はそもそも法とは無関係である。法はコンフリクトとの 関連でのみ意義を持ちうるのだから(Luhmann 1990, 236-237)。
 法化については、Teubner 1984=1990をも参照。トイプナーもまたこう指摘している。「法化は、単に法の増大を意味しているのではない。それが示しているのは、介入的社会国家が、新しいタイプの法、つまり規制立法を産み出す過程である」(Teubner 1984=1990, 251)。
 念のために付言しておくならばこれは、法化論においては法と政治の関係が法システムからではなく政治システムから観察されているということであって、法と政治が脱分化(Entdifferenzierung)を遂げてひとつのシステムを形成するに至ったというように解釈してはならない。馬場 2001a, 第三章を参照。
 さらにこの種の批判は、現実の政治に対してだけでなく、〈社会民主主義の大勝利〉から生まれた最良の思想的成果のひとつであるロールズの『正義論』に対してもまた、寄せられていることを確認しておこう(千葉 1995, 90)。もっとも逆に、この種の絶えざる異議申し立て=「反システム運動」こそ〈68年革命〉の真の遺産であって、むしろ包括的福祉国家は、この〈革命〉がもっていた「反システム性」を封じ込めるための反革命としてうち立てられたものだったとの評価も可能だろうが(Arrighi/ Hopkins/ Wallerstein 1989=1992, 97)。